肯定の批評

 今日の言論は、新聞であれ、週刊紙であれ、新書であれ、何でもありの状態になっている。そういう状況のなかで、どれか一つを取り上げて、評論家がその内容を否定することがあるが、否定すべきものが腐るほどある今日の状況のなかで、否定の言論はあまり意味がないのではないかと私は思う。なにを読むにしても、たかが新書、たかが週刊紙、たかが新聞、という感覚で付き合わないと騙されてしまう。
 そして、否定すべきものを一つ一つ非難していっても、けっきょく、その変わりになるものを提示できなければ、何も変わらない。それに、相手の一部だけを見て非難するだけのスタンスは、ワイドショーとか大衆週刊誌と同じ構造になってしまう。

 「風の旅人」の誌面づくりで、白川静さんの扱いがマンネリだと言ってくる出版界の人がいた。「白川静さんの扱い」という言葉じたい、白川さんを誌面づくりの材料にするという感覚なので私は好きになれないが、それはともかく、そのように否定する側の論理に立ってしまうと、どの角度からでも否定できてしまう。
 白川さんの魂を最善のかたちで見せるためにはどうすればいいのかということしか私は考えていないし、それが白川さんの言葉に対する敬意だと思っている。それを見飽きてしまう人がいるというのは仕方がない。問題の核心は、それを見飽きてしまう人とそうでない人のどちらを「風の旅人」の読者として設定するかであって、両方ともに好まれようなどと私は考えていない。

 今、評論家や批評家というのが花盛りだが、ほとんどの人が否定の批評だ。
 否定すべきものを指し示すことより、肯定すべきものを指し示す批評を私は読みたい。その方が難しいと思う。人間は完全な生き物ではないから、粗を見つけるのは簡単なこと。ピカソであれ、セザンヌであれ、失敗作はあるのであって、その失敗作をあれこれ攻撃することで作者そのものを否定しても意味がない。多数の失敗作ではなく、成功したと言える数少ないものによって、芸術家の価値は決まってくるだろう。それが生涯に一作品だけであったとしても。欠点や失敗を探して人を評価する方法は、官僚のなかの出来事だけでなく、そうした体制を批評する言論の側にも顕著であって、どちらも同じ思考構造の産物なのだ。
 否定は、相手の一部を見るだけ(言質をとることなど)でもできるが、肯定するためには、相手の全体をきちんと見定めなければならない。自分が推薦できるものを提示することは、自分の価値観をさらけ出すことになるので、とても勇気がいるし、難しい。