郵政民営化の否決

 郵政民営化法案の否決。私は民営化されるべきだという考えだ。その理由は、民営と公営では組織員の組織に対する危機意識やコスト意識がまるで違うし、その危機意識やコスト意識によって、現状の様々な問題を乗りこえていく智慧が絞り出され実践が可能になることが期待できるからだ。なかでも、コスト意識に関しては、公の組織と民の組織では、例えば取引先を値切る場合など、必死さがまるで違ってくる。
 また、 特定郵便局長会みたいなものが自己の権益を利用して、その権益を守るために政治家に働きかけて政治家もそれを利用するという構造が残り続けることに、言いようのない嫌悪感を感じるからだ。
 でも、今回の採決に関して言うと、政治家の勢力バランスや利権関係者の駆け引きや、脅しの中だけで事が進み、どちらの陣営の「根回し」が強かったかということにすぎないので、どちらに決定しようが大した意味はないと思っている。問題は、これからだ。その意味で、小泉首相が、否決=解散と決定したのはよかった。これがもし否決されたのに妥協して現行の体制のままということになると、今後も、権益者同士の嫌らしい駆け引きのバランスのなかで日本の政治が進んでいくことになる。
 解散されることによって、今後の進路を決めていくのは、政治家の利権駆け引きではなく、国民一人一人の意思であるという構図が取りあえずは出来た。
 取りあえずとしか言いようがないのは、国民一人一人にその自覚があるかどうかわからないし、国民といっても、国民という実態が明確にあるわけではなく、それぞれが様々な形で組織に従属し、その組織の利権と自己の生活条件と無関係でいられないからだ。だから、組織を束ねる人も、組織防衛のために、いろいろと駆け引きを行う。彼らもまた国民なのだ。また、そうした政治的圧力から無関係の立場で意思決定できる人の多くは、政治の方向性が自らの生活とあまり関係ないという理由で、投票場に足を運ぶ動機が弱いという問題もある。それゆえ、最終的に国民の審判と言えども、利権に多少なりとも関係のある国民のなかだけで採決が行われてしまう可能性もある。
 一度でもいいから、投票率95%以上の選挙というものを見てみたいものだ。
「誰が政治家になっても同じようなものだから投票する気にならない」とか、「言っていることが、綺麗事ばかりだ」とか「政治家はみんな同じようなことばかり言っている」とか、それ以外にもあるかもしれないけれど、だいたい理由はこんな感じだろう。
 確かにそういうことがあるかもしれないけれど、その結果として50%くらいの投票率になっているその曖昧さが、当選した政治家の公約を平気で裏切れてしまう曖昧さにつながっている。国民の半分が政治に無関心なんだから自分の立ち位置を多少変えても、気づく人は少ないと感じているのではないか。たとえ気づく人がいても、そのリスクよりも、当面の利権の方が大きいと感じているのではないか。いずれにしろ、投票率50%と95%だと、緊張感がまるで違うだろう。
 政治の良し悪しというのは、選挙の時点で立派なビジョンを持っているかどうかではなく、政治家として働き始めた後の身が引き締まるような緊張感によって決まっていくものではないだろうか。その緊張感が、無い知恵を絞り出させるのではないだろうか。
 これだけ複雑で混沌とした時代に、それをすぱっと切り抜ける術を簡単に言語化して演説できるわけがない。
 「こうしたら成功できる。幸せになれる」というような流行のハウツー本のように、モノゴトを簡単に説明してしまっているものは胡散臭い。
 選挙であれ、ハウツー本であれ、安直化された言葉が国民説得の有効な手段と考えられているようなところがあるが、そういうことを平気で行っている人の安直な人間性を疑うところから、始めなければならないのではないだろうか。
 言っていることが難しくてわからなくてもいい。その難しいことを伝えようとする態度で、人を見極めたい。むしろ簡単そうに言う人は、疑ってかかる。この時代の問題は、簡単に言って伝えきれて解決できるものではないのだから。
 見極めるポイントは、箇条書きされた内容や声の大きさ(やかましさや目立ち度)や押しの強さではなく、その話し方とか、文体から滲み出るものでその人を信用できるかどうか判断していくとか・・。むろん、それも簡単なことではないが、簡単なことではないからといって、知らんぷりするのではなく、わかろうがわかるまいが、一つずつ見極めようと目を凝らして耳を澄ますという態度で選挙に参加することが、政治家の緊張感を増させるのではないか。
 結論として、次回の選挙は、選挙運動中に候補者が言っていることがくだらないかどうか、わかるわからないは二の次にして、とにもかくにも政治家に緊張感を与えるために、95%以上の投票率を目指そう。