政治の劇場化

「風の旅人」編集部は永田町にあり、砂防会館の前などで報道関係の人たちが群がって政治家にマイクを突きつけている光景によく出会う。
 政治家の行動を事前に掴んでいて、先回りをして陣取り、炎天下のなか、一言をもらうために待ち続けている。
 カメラを向けて大勢でマイクを突きつけて無理矢理にもらう一言に何の意味があるのだろうかとよく思う。政治家からは、失言を恐れて当たり障りのない言葉しか出てこないし、その言葉が、国民の投票判断につながるようなものになる筈がない。
 追いつめられた改革反対派の苦渋に満ちた表情とか、苦し紛れの言葉とか、一種のエンターテインメントになっているのだろう。そして、国民は、茶の間でお菓子でもつまみながら、何の緊張感もなくその番組を見ている。
 現在の政治は、間違いなく劇場化している。しかし、劇を盛り上げる要素が少ないと、エンターテインメントとしては面白くない。だから今回の騒動は、メディアにとっては、うってつけだろう。一生懸命、メディアが「刺客」とか何とか言いながら騒動を煽っている。そして、大衆がそれに乗り始めた。だから野党も、妙に焦っている。社民党など、辻本氏に頼ろうなんて発想で、完全に同じ土俵に巻き込まれている。
 小泉首相は、大衆がどういう劇を好むか知り尽くしているのだろう。
 かつてヒットラーは、演説で大衆の心を掴んだ。しかし日本人は、演説で話される言葉に対しては、もともと警戒感がある。言葉を鵜呑みにしないところがあるし、言葉で押し通す人を理屈っぽいと言って煙たがるところがある。無口でちょっとドジで、照れ笑いしている方が、誠実な印象を受ける。そういう人を可愛いというおばさんは多い。小泉さんも、愚直さと可愛さの両方を使い分けている。
 それにしても、日本人は、筋書きのはっきりしているドラマに対してはまるで警戒感がなく、コロッと感情移入してしまう。
 裏切られたり迫害された人間が、復讐の為の戦いを仕掛けるなどというのは、大好きだ。
 また、大義を果たすという名分で捨て身の戦いに出る者を、勇者だと思うふしがある。
 賛成か反対か一対一の戦いという構図も、相撲とか野球(ピッチャー対バッター)など日本人の好きなスポーツと同じでもあり、また昔の日本のサムライの戦い方(名乗りをあげて、一対一で戦う)でもあり、フェアなイメージがある。  
 日本人って、決して好戦的に見えないのだけど、サムライ劇は大好きだし、企業活動を見ればわかるように、いざ戦うとなれば容赦がないし、強い。
 その強さの秘密は、感情の統一にあるのではないかと時々思うことがある。
 日本人は肉体的に暴力的でないけれど、感情移入が集まった時のファナティックな群衆心理は、大きな支配力を発揮する。そうした状態になると、突然、反対のことを言いにくい雰囲気になる。ロジックよりも、その場の雰囲気が尊重されるからだ。ケチをつけて、波風を立ててはならない。それは太平洋戦争の時にかぎらず、今も日本人の根っこにある性向だと思う。