極楽

 昨夜、上野公園の忍ばすの池の水上音楽堂で行われた地球音霊祭に行く。セネガルの古典楽器と、和太鼓。どちらも、身体の芯にズンズン響いてきて、音楽を聞くというのはこういうことなんだと改めて認識した。クーラーをきかせた部屋でCDばかり聴いていてはダメなんだ。生で、屋外で、風を感じながら、音と一体になって、身体のなかが入れ替わるような体験。仕事のため開演よりちょっと遅れてしまい、駅から小走りのような早歩きで行ったものだから、汗びっしょりになってしまった。でも、あの音楽堂は、天井はあるけれど屋外で、外からの風が涼しく感じられた。また、座席が、ものすごく分厚いムクの木のベンチで、昼間の熱を吸収しているのかじんわりとした温かさが伝わってきて、その温かさが夏なのにとても心地よかった。
 セネガルの古典音楽は、演奏もよかったが、舞踏が素晴らしかった。彼等の身体の強靱さ、しなやかさ、顔の表情の豊かさ、健やかさ、身のこなしの自由さ、俊敏さ、柔らかさ、強さ・・・、生きるって、ああじゃなくてはいけないと思わされてしまった。豊かな国、貧しい国という分別は、とてもみみっちいものだ。そんなもの生きることの本質とは関係ない。そう思わされる力強い説得力があった。
 先週、上野の科学博物館で行われている縄文vs弥生展を見に行ったのだけど、当時の食事の見本が展示されていて、アワビとかキノコとか、海の幸、山の幸がふんだんで、とても美味しそうだった。また、彼等が着ていた衣料の展示もあったが、夏なんかほんとうに涼しそうで、肌触りも気持ちよく、きっと快適だったんだろうなと思った。夕陽が落ちる頃、パチパチと焚き火をしながら、魚とか動物の肉を焼いて、地酒とか飲んで、談笑していたのだろうか。吹き抜ける風も、今の東京の町中よりきっと気持よかったはずだ。原始の時代より今の方が幸せだなんて、私は信じていない。
 それで、地球音霊祭が行われた上野公園の忍ばすの池なんだけど、池の水があって、ボートが浮かんでというイメージをかってに作っていたが、とんでもない光景が広がっていて度肝を抜かれた。水面なんていっさい見えないほど蓮が群生している。しかも、その蓮がでかい。傘になるくらいだ。しかも、水に上品に浮いているのではなく、人の背丈ほど茎を伸ばし、その先に、大きな傘のような葉をつけている。また巨大な桃のような蓮の花が、同じく人の背丈ほど伸びた茎のうえに乗って、無数に咲き誇っている。忍ばすの池は、私の散歩コースの目黒の自然教育園と同じくらいの広さで、向こうの端が見えないほど大きいのだが、それが全て、巨大蓮で埋まっているのだ。そして、風が吹くと、その葉たちが、ザワザワと声を立てる。池の上は大きな空が広がっているが、その向こうに、奇妙な形をした高層ビルディングが建ち並んでいて、その有様はとても妖しく、東京という街の霊性をとても強く感じた。
 その忍ばすの池の畔に一件の茶店みたいなものがあって、お座敷の上で、1500円で晩酌セットの酒の肴と生ビールか冷酒を二杯飲める。熱燗をオーダーしたがダメだった。酒の肴はあまり期待していなかったが、けっこう薄味が沁みていて美味しく、ボリュームもちょうどよかった。なによりも池の上を吹き抜ける風と、池の上の広大な夜空と、巨大な蓮がザワザワと揺れる様が、妙に気持ちよかった。音楽の余韻があったからかもしれないが、とても記憶に残る一夜だった。最近、外で食事をしたり酒を飲んでも、何を食べて何を飲んだか、実感として何も残らないことが多かった。酒とか食事にかぎらず、現代社会は、その種のものがとても多いのだ。そうした数をこなすよりは、肌身に合う極楽を探し出した方が、何倍も幸せなんだろう。