ギュスターブ・モローと芥川賞

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 午前中、今回の芥川賞受賞作を読み、昼、炎天下のなか子供とキャッチボールした後、渋谷の東急文化村で開催されているギュスターブ・モロー展に行く。モローの絵は、昔パリにいた時、モロー美術館で見た時まったく感銘を受けなかったので、それ以降、興味を持てなかった。でも、数ヶ月前、現代美術館で見たルオー展がとてもよく、前田英樹さんの本でルオーがモローを尊敬していたと書いていたので改めて見ようという気になって、展覧会に行ったのだった。で、結果は、やはり今回もまったく心が動かされなかった。どうも私は、モローの良さをまったく感じ取ることができない性質のようだ。なぜなんだろう。モローの絵は、モローの特徴が出ている。一目でモローの絵とわかる。でも、どれも、まったく同じに見える。もちろんレンブラントなども同じような絵が数多くあるが、どの絵の前でも新鮮な魅力があり、引き込まれてしまう。モローの絵は、全然そういうものが感じられないのだ。

 モローの絵は、聖書や神話を題材にしている。彼は、歴史画家を目指したという。彼の言う歴史画家というのは、神話や聖典と史実をキャンパスの上に融合させることなのだろうか。現実的背景のなかに神話を描いて、神話の真実をリアリティあるものとして自分の側に引き寄せようとしているのだろうか。でも、私は、ホメロスの神話や聖書にそんなに思い入れがないので、モローの意図がまるでわからない。リアリティを感じることが出来ない。ただの観念の創作に見える。モローの絵は宝石のように美しいなどと形容されるが、ガラスの宝石のように綺麗なだけで、そこに本物の美を感じることができない。だから見終わった後、記憶に残る絵は一枚もなかった。今日何を見たんだっけという感じで。

 モローが悪いんじゃない。モローの絵の神話的主題が私にとって切実でないだけなんだろう。でも、なぜ近代に、ヘラクレスヒュドラとかサロメの物語りが必要なのか、さっぱり理解できない。もちろん、芸術なのだから、理屈ではわからなくても作品の力によって今日を生きる私たちにとって何かしらの必然性を感じさせてくれればいいのだけれど、作り手の側に作品を作りたいという意識が最初にあって、それで作品のために主題を選んでいるという感じが強すぎるのだ。だから、その主題が作り手にとって生きていくうえでどうしようもないくらい切実なものであるという凄みのようなものが伝わってこないのだ。

 今朝読んだ今回の芥川賞受賞作もそんな感じだった。作品づくりの意欲が先にあって、ニュースとか社会的風俗から今日的な主題を探してきて作品としてまとめる。それは、読み物を提供するというサービス精神のなせる業で、それはそれでいいのだけれど、テレビのワイドショーや週間新潮か文春の今日風の事件の背後を想像してフィクションで書いたものをより凝ったものに作り上げたのだという感じしか伝わらず、この小説をわざわざ読んでもしかたなかったという気になった。

 私はホメロスの神話や聖書に対する強い思い入れはないけれど、それでも文章のまま読んだ場合は想像力を刺激されて強い印象が残るのだけれど、モローの絵のように、たとえばヒュドラという怪物を幾つもの頭を持つ蛇の姿で見せられたりしたら、神話が作り手のイメージのなかに固定されてしまい、なんだそんなもんかという気になって恐ろしさも半減する。それと同じように、今日風の事件をモチーフにした芸術表現も、既に多くの人がワイドショーやニュースを通じて知ったつもりになっているイメージを全てバラバラにして新たに強靱な力で再構築するくらいの覚悟でのぞまなければ、文学作品というジャンルがワイドショーよりは真面目を装っている分、より固定したイメージを人に与える役割を負ってしまう。得体の知れないものを、なんだそんなもんかという感じで陳腐化してしまう。表現の受け手が、なんとなくわかったつもりになって、へえーそういう酷い現実もあるんだ、酷いね、気の毒だねと口で言いながら、心の中では、まあ俺はそういう環境でなかったから、俺には関係ないな、でも読み物としては、まあまあ面白かったね、いまいちだってね、みたいな感じで。

 モチーフによっては、そうなってもそれほど害でないものもあるだろうが、今回の芥川賞を受賞した作品のモチーフは、もう少し、慎重に取り組まなければならないのではないか。文学作品に限らず、深刻なドキュメント写真や映画、ルポルタージュなどでも同じような陥穽があるのだけれど、そのことに無自覚的なものも多い。

 今回の芥川賞受賞作は、多くの人が観念として知ったつもりになっているような今日風の事件とその背景を、幾分心理的な側面から捉えようとしているのかもしれないけれど、それは今日流行の心理分析の域を超えず、それをさらに上からなぞっているだけのような気がした。 

 同じくモローの絵も、神話の解釈として、その分野の人にとって新しいものがあるのかもしれないけれど、芸術作品であるならばその分野の人以外(情報知識を共有していない人)にも伝わっていかなくてはならないもの、例えばモローの内面の格闘もしくは格闘が昇華したと感じさせられる凄みなどが、ほとんど何も伝わってこなかった。 

 その二つの作品は世の中で評価を受けているのだから、きっと私にはわからない魅力があるのだろうけど、今の私の正直な気持として、そういう風に感じるのだから仕方がない。