今後の展望

                  VOL.16のポスター



 リニューアル第一弾、Vol.16(10月1日発行)のHoly Planetが、ほぼ校了に近づく。次のVol.17(12月1日発行)のLiving Zero〜永遠の現在〜は、ほぼ手配を終え、来週あたりにデザイナーと打ち合わせをする。

 今いろいろ思案しているのは、Vol.18(2月1日発行)だ。このVol.18で、ちょうど三年になる。この号のだいたいの方向性は見えているのだが、未だカオス状態だ。

 創刊時からおそらく廃刊の時まで変わらない理念は、FIND THE ROOT(根元を求めよ)だが、11号までは、「森羅万象と人間」というテーマに基づいて制作をした。第12号からは、「自然と人間のあいだ」というテーマだった。そして、第16号からは、「世界と人間のあいだ」というテーマを設定している。「あいだ」というのは、関係であり、距離である。

 人間には、感覚と知覚と肉体がある。この三つ(他にもあるかもしれない)があって人間なのだが、これらはお互いに干渉し合ったり、障害になったりする。空を飛びたいと思っても、肉体がそれを邪魔するし、肉体の暴力的欲求を知覚が牽制したりする。また知覚と感覚が融合して崇高な精神を抱いていても、重い肉体が足枷になることがある。

 先週、静岡美術館にアルタイ展を見に行ったのが、別の展示場にロダンの立派なブロンズが多数陳列されていた。それらの巨大な像を見ていてつくづく感じたのが、逞しい肉体の重々しさだ。お馴染みの「考える人」の彫刻は、肉体の重みが全身から顎のところに集中していて、それを頬杖をつく腕でかろうじて支えているように見えた。考えている姿勢のあの腕を外すと、へなへなと肉体が地面に落ちて崩れて、土塊になるだろう。

 ロダンの彫刻の肉体の重みは、重力の重みであると感じられ、そういう目で見ると、肉体を下方に引きずり下ろそうとする力に抗うために筋肉が隆々としているのだけれど、その筋肉によって厚みを増した肉体が、さらにどんよりと重みを増しているように感じられてくる。

 ロダンの彫刻は、天空を翔ようとする精神(知覚と感覚の融合)と、その足枷になって地面にのたうつ肉体との均衡が感じられる。

 それで、私が今考えている「世界と人間のあいだ」というテーマだが、従来、肉体の暴走を制御し、見聞を広め、問題意識を高めるという人間らしい精神の獲得に大きな力を果てしてきた知性(理性)の働きを見直したいという気持ちがある。肉体という自然をコントロールしようとする知性(理性)によって、失われたものが多いと感じるからだ。

 なぜなら、人間は、世界の全てを知覚できるわけではないからだ。知覚が尺度になると、世界の可能性の多くを捨て去ることになる。 

 私は、「風の旅人」のVol.16から、人間の知覚の背後の世界に焦点を当てていくことを強く意識している。

 人間の知覚は情報知識によってもたらされるが、その情報知識が人間の世界を広げるように見えて、実は狭めている。知っているつもりになっていることが増えれば増えるほど、世界の奥行きは狭められる。それは、自分が生きて感じていく世界の可能性が狭められるということだ。

 その呪縛からどうすれば解放されるのだろうか。知識情報がその呪縛になるからといってそれを遮断すると、人間を構成する知覚の領域を眠らせることになる。知覚を眠らせて平安な心を手に入れて悟りに達するという宗教的方法も、けっきょくのところ自分が生きて感じていく世界の可能性を狭めることではないか。

 知識情報を与えたり受け取ったりしながら知覚を刺激し、それでいながら知識情報に意識が留まってしまうのではなく、さらにその向こうの世界につながっていくこと。そのために必要な力は、おそらく想像力(=洞察力)なのだろう。

 人間の知覚で行えることは、ロダンが生きた時代にはなかったコンピューターでまかなえるようになってきた。でも、想像力(=洞察力)の分野は、いまだコンピューターでは不可能だ。だから、人間の聖域とでもいうべき想像力(=洞察力)を活性化する表現こそが、これからもっと必要になるのではないだろうか。

 弟16号のHoly Planetでは、地球上で人間が物理的もしくは精神的に関与している風景を取り上げている。その風景は、宇宙から私たち人間へと貫く大いなる働きを予感させる。その風景は、私たちを取り巻く世界の背後へと通じる入り口であり、その入り口の向こう側に行けるのは、人間の想像力である。 人間は、想像力によって、世界の背後にある力と通じ合うことが出来る。この号では、そういうことが趣旨になっている。

 そして第17号のLIVING ZERO〜永遠の現在〜では、宇宙の摂理が流れ込んだ永遠の”今”という時間に焦点を当てている。

 私たちの情報知識においては、時間は、一秒一秒前に進んでいく。昨日があり、今日があり、明日がある。宗教的な概念の最後の審判とか輪廻転生にしても、明日の後に続く未来のどこかの出来事を説明しているわけであって、一方向の時間軸のなかで、直線か曲線かという違いでしかない。

 しかし、今という時間は誰しも共通のものが一つあるのではなく、幾層にも別れていて、私たちは、その異なる位相のなかを、その都度選択的に生きているだけかもしれない。誰もがそうしたことを経験のなかで知っている。経験で知っているからこそ想像できる。同じことでも、長く感じたり短く感じたりするし、同じ場所で同じ被写体を撮影した写真でも、撮る側の位相が違えば、まるで違った写真になってしまう。幸福も不幸も天国も地獄も決まりきった尺度を外からあてがうものではなく、永遠の現在に立ち会っている人間の、その時間に対する向き合い方の問題にすぎないのかもしれない。

 今日では、「スローライフ」という言葉があまりにも流行しているが、この言葉の背景には、当初、慌ただしくて見逃しがちな瞬間ごとの細部を大切にして生きていこうという気持ちがあったのではないかと思うが、いつしか、自分のお気に入りのものの中だけでのんびり過ごす状態を肯定するものになってきた。そうした考えは実はとても閉鎖的で、息苦しいものだ。自分に合わないものを意識の中から排除して見えないようにする傾向は、想像力の活性化と逆行しているし、自らの可能性の幅も狭めるものだ。

 Vol.17のテーマ「LIVING ZERO」の”ZERO”のなかには、スローかそうでないかという分別も超えて、昨日も今日も未来も含まれた全てが包含されている。そうした”無分別の今”にあるのは、想像力によって無限に開かれていく可能性に満ちた世界だ。そのことが17号の趣旨になっている。

 そして、今から構成していかなくてはならない2006年2月号(Vol.18)でイメージしていることは、ESSENCE〜<かたち>に宿る美〜だ。<かたち>とは宇宙の秩序のことでもある。宇宙や自然や人間の営みの本質に宿る力が反映された<かたち>と、その<かたち>に共振して感じる美。

 宇宙内にある<かたち>や、人間が作り出す<かたち>は、気まぐれの偶然のように見えるものでも、そこに美を感じさせるモノは、私たちの知らない宇宙の摂理が流れ込んでいるからではないかと思う。<かたち>も背後の力の反映なのだ。背後の力との共振によって、美しく見えたりそうでなかったりする。その共振力も、想像力(=洞察力)だろう。

 今日、様々な情報ルートで多様な<かたち>を数多く見せられて、これが世界の実態だと主張されても、本当にそうだろうかと私は思ってしまう。<かたち>は、その背後の力と共振できた時に初めて、世界と人間のあいだを繋ぐものになっていくのではないか。そして、美は、その暗示ではないか。そうしたことをVol.18では掘り下げて示したいのだけれど、今はまだ暗中模索のなかにいる。

 雑誌というのは、写真と言葉の両方の力を紡ぐことができる媒体なので、やりようによっては、見えているつもりや、わかっているつもりになって固定して狭められている世界に揺らぎを与える小さな風になれるのではないかと私は思っている。そう思えない状態になってしまったら、この仕事を続けることはできない。