自己決定権!?

 今朝の朝日新聞で、出産直後に長男を亡くした両親が「帝王切開を強く希望したのに医師に拒まれ、自己決定権が侵害された」として、医師らに8千万円の損害賠償を求めた訴訟の件が掲載されていた。この件で、朝日新聞は、患者の自己決定権と医師の裁量をどう調和させるかについて最高裁がどんな規範を打ち出すか注目されると結んでいる。

 しかし、私は、そうした論点について少し疑問がある。

 患者およびその家族には、それなりの意思があるだろうし、医師にも医師の経験と判断がある。その二つの見解が食い違った時、対話がある。それでも見解が食い違った場合、患者と家族には医師を変える権利がある。その権利こそが、自己決定権ではないのだろうか。その権利を保持しながら、様々な相手と対話し、自分でモノゴトを選択していく。それが自分の人生を生きるということではないのだろうか。

 一審では、「優越的立場にある医師に従わざるを得ない状況に至っていた」として、医師側が敗訴して、賠償責任を求められている。逆子だから帝王切開、それで、100%成功するとは言い切れないのにだ。

 医者は患者の生命を預かっているから、当然ながら常に最善の判断を行う努力は必要なのだが、判断に関する責任論ばかりが過剰になると、責任ゼロの立場に自分を置きたくなってしまうのではないか。主体的な判断をゼロにすれば、判断に関する責任もゼロになる。そうして何かを行う前から、責任回避の策を講じることが重要視されてしまう。こうした傾向は、医療現場だけではなく、至るところに見られる。プロがプロとしての自負を放棄し、ユーザー側に媚びて、批判の矢面に立たない処世を身につけることに一生懸命になる。

 プロは素人より高い確率で成功する知恵を持っていることは間違いないが、100%ではない。確率をさらに高いものにしていく努力は、プロ側にも必要だが、プロに仕事を委ねる我々にもできることだ。自分が仕事を委託するプロの意見が正当なものかどうか、他のプロにも意見を聞き、総合的に判断をすることなどによって。

 他のプロの意見にも耳を傾けるという判断の幅は常に必要で、その幅のなかでモノゴトを決定していくことが、より間違いない判断に近づく道だろうと思う。そして、その判断の幅が確保されているかぎり自己決定権は確保されているのではないかと私は思う。

 もう25年近く昔になるが、私の親族の大切な一人が、肺炎で亡くなった。風邪をこじらせてから、僅か二週間ほどだった。

 連日40度の体温だったが、その亭主は風邪を甘く見て病院に連れていかなかった。あまりにも長く高熱が続くので、亡くなる5日ほど前になって初めて病院に連れていった。その時、その病院は入院を勧めなかった。ほとんど意識朦朧としていたのに、亭主は家に連れて帰ってきた。その二日後、容態があまりにも悪いので、亭主は別の病院に連れていった。その時、「高熱で脳と肺が冒されていてもう手遅れだ、なんであと2,3日早く連れてこなかったのか」と医師に責められた。その場で緊急入院したが、翌日から意識が混濁して、その二日後には亡くなってしまった。あっという間の出来事だった。

 この豊かな時代に、風邪をこじらせて死んでしまったのだ。病院に行く判断、入院する判断が間違ったことによって。その亭主は、妻が亡くなった後、最初に連れて行った病院を訴えようとして、準備を進めた。プロなのに判断を間違ったということで・・・。

 しかし、妻の容態の悪さは誰の目にも明らかで、辺境の地ではなく、周りに病院もたくさんあるなかで、どうして慎重には慎重を記して、他をあたらなかったのか。その自己責任は、どうなるのか。病院を怨む気持ちは、実は、自分を怨む気持ちにすぎない。そういうことは、本人が一番よくわかっている。

 自分の宿命は、けっきょく自分で選び取って背負うしかない。にもかかわらず、その自覚が知らず知らず弱くなって、依存的になってしまっている。その依存心が一番大事な局面で出てしまい、自分の意思で行動できなくなる。そして、自分の意思で行動しなかったことの責任を、外部要因に求めるようになってしまう。それを求めたところで気休めにしかならず、また人生の別の局面で同じような意思決定の現場に立ち会わなければならなくなるのに。

 昔は、農業であれ、漁業であれ、どんな仕事であれ、この世には絶対的なものは何もないと知り尽くしていたから、その限られた条件のなかで、成功の確率を高める方法論を身につけようと各自が努力していた。だから、いろいろなことに敏感になれたし、想像力も発揮できた。しかし、今は、ハウツーとかマニュアルとか誰かのお薦めとかお墨付きとかブランドとか、予め決められた答えが与えられすぎていて、自分の頭で考えて判断することが少なくなり、危険なシグナルに対して、鈍くなってしまった。 

 今回のことは、朝日新聞が書くような「患者の意思決定権と医師の裁量の調和と新たな規範づくり」という新たな「答え」づくりの問題ではなく、情報の量だけはふんだんにあるこの時代に、自分でモノゴトを選び取って判断していけるための知恵と方法を、一人一人がどう身につけていくかの問題なのではないかと私は思っている。