写真の売り込み

 「風の旅人」に写真を掲載してもらいたい、という売り込みの電話とかメールをよくいただく。最近、写真をメインに扱う雑誌が少ないということもあって、たまたま書店で目にした「風の旅人」(最近、表紙を写真に変えたことで、写真をやっている人の目に留まりやすくなっているのだろう)を、かっこうの発表媒体と考えてなのか、その場ですぐに連絡をしてきたりする。きっちりと読みもせずに。

  私は、写真家のための写真雑誌を作りたいのではなく、自分なりにビジョンを持って雑誌を作っているつもりで、写真だけでなく執筆陣の人選にもエネルギーを傾けている。その人々の文章を読むこともなく、ただ写真を大きくあつかっているからという理由で、写真雑誌だと勘違いされることは辛い。朝日カメラとか日本カメラのように、写真の見せ方とか、写真の新しさとか、写真論を語ることはしないので。

 また、掲載が難しいのなら見たうえで感想を聞きたいという声もある。私は、写真評論家でないので、いわゆる、「いい写真」とか「新しい写真」を、探していないし、それがそうであるかどうか、評価をしたいとも思わない。

 あくまでも自分が編集をしようとしているテーマに添った写真であるかどうか、その写真をどう組んで、どうレイアウトをすれば、その写真の力を最善に発揮できるかだけを考えている。

 とはいっても、今すぐにテーマに合うかどうかわからなくても、気になる写真は、写真家の方が望むなら預かることはある。第15号で掲載した山田真君は、これから活躍していく若い人だが、2年近く預かっていた。第4号あたりだったと思うが、それまでの「風の旅人」のことを深く読み込んでくれていて、奈良から足を運んでくれて、作品を置いていった。「いつになるかわからないけれど、それでいいなら」という私の言葉を受けて。

第13号の中藤君や、14号の福持君や、第11号の真田君や森田君も、そういう若手だ。

 3号、4号で掲載した八木清さんは、「風の旅人」の掲載誌で、その年の新人賞を取った。だから、私は決して、サルガドとかゴーウィンとか野町さんとか水越さんとか大物ばかりと仕事をさせていただいているわけではない。

 大事なことは、一緒に仕事をしたいと思える人かどうかだ。一緒に仕事をしたいと思う人というのは、まず第一に自他ともに認める素晴らしい仕事をしている人。この場合は、こちらから先方に失礼のないようにアプローチしなければならない。

 そして、もう一つは、これまで素晴らしい業績を残しているわけではないが、一緒に仕事をしたいと感じさせる何かを持っている人。それは、才能とか将来性とか、そういう単純なことではない。その人自身が持っている魅力だ。といって、特別なことではない。他人にきっちり配慮できるかどうかとか、対話を申し込む前に、相手をきっちり理解したうえで臨むことを当たり前のこととして感じているかどうかとか、自分の都合だけを考えてメールとか電話で売り込むことの失礼をわきまえている人だ。

 なかには、こちらが忙しくてぞんざいに対応すると、「失礼だ」と怒る人もいる。しかし、現在のように発売間もない頃に立て続けに電話をかけてくる「本屋でちょっと見た人」に丁寧に対応していたら、仕事はできない。

 売り込みの段階で、相手の事情に関係なく「失礼だ」というのは、やはり、売り込みのスタンスが、とても自己都合的になっているからだと思う。

 他の出版社がそうだからということを私に言う人もいるけれど、他の出版社と同じスタンスで構わないなら、何も「風の旅人」に電話してこなくてもいい筈だ。「風の旅人」でなければならない、という人であり作品でないと掲載は難しいと思う。それでなくても、「風の旅人」に協力してくれる凄い写真家は大勢いるのであって、その隙間に入り込もうと思えば、それなりの信念とか覚悟が欲しい。こういう言い方は傲慢に聞こえるかもしれないけれど、実際には、凄い写真家の方が、世の中のいろいろなことがわかっているので、「風の旅人」の特殊性を正しく理解してくれている。

 相手にアプローチするスタンスで言うと、たとえば、私が執筆をお願いしたい人にアプローチする場合、電話やメールやFAXなんて、あり得ない。もしもその人が仕事中なら、邪魔をしてしまうことになる。だから、仮にそうして、ぞんざいに対応されても、それは仕方ないことだと思う。こちらが誠意をもって、きっちりアプローチすれば、ぞんざいに対応されることなどない。ぞんざいに対応されるのは、そもそもアプローチの仕方が間違っていて、相手を怒らせているからだと私は思う。

 自分の思いを伝えるためには、電話では無理だ。だから、当然、全身全霊を傾けて手紙を書く。創刊の時は、見本誌はなく企画書しかないので、全員に毛筆で手紙を書いた。(へたくそな字でも、その方が説得力が高まると思った)

 そして、当たり前のことだけど、その方々を理解するため、作品も読み込んでいた。というより、読み込んで共感するからこそ、アプローチするのだ。

 で、手紙を書いたからといって、返事がもらえると考えるのも、甘いと思う。手紙を書いた後に、その人が仕事で忙しくしていないことや、人の話を聞く余裕がある状態であることを願いながら、おそるおそる電話して、手紙を読んでもらえたか、自分の思いが伝えられたか確認して、再度、口頭でお願いするという感じだと思う。そうした方法で、掲載を断られたことはほとんどなかった。

 

 「風の旅人」の一、二冊を読んだだけの人の売り込みの写真を見るのはいいとして、その人たちといったいどんな対話ができるのだろうと思う。その人たちは、自分の写真を一生懸命に説明するだろう。しかし、対話というのは、相手を見て、相手に相応しい言葉で話そうとすることだと私は思う。しかし、一、二冊で、相手を見ることができるとは思えない。それができると思っていたら、とても傲慢だ。

 そういう傲慢さで写真を撮っていたとしたら、その写真はたぶん大したものではないだろうと、私は感じる。作品の本当の質は、そういうスタンスが反映されるものだと思う。

 「風の旅人」は、、世の中の在り方に対して、同じような志向性をもって表現しようとしている人たちと、一緒に仕事をしたい。そして闘いが困難であるゆえに、仕事の関係者とは、気持ちよく仕事をしたい。気持ちよく感じるかどうかは、最初の出会い以前のスタンスから始まっていると思う。