保苅実と「風の旅人」と世代論

 ソーシャル・ネットワーキングの「MIXI」の中の、「風の旅人」読者会というコミュニティに、以下のような書き込みがありました。


「リニュアール第一号を見て、思わず、あれ?って思ったっていうか、新鮮な感じもしたのですが、保苅実さんのテキストが紹介されていますよね、1972年生まれなのに他界されたわけですが、いままで「風の旅人」では1970年以降の人(もっと拡げて1960年代後半)の執筆人がいらっしゃらなかったんではないか、それで、ぼくは新鮮なものを感じたのではないか、ということです。

 世代論は粗雑で表層の理論になるので、あまり深入りしたくはありませんが、議論の叩き台というか、みなさんの話のやりとりのきっかけになればと、あえて大雑把な世代論を投げてみたのですが、いかがでしょうかね、

 1944年生まれの僕にとって「風の旅人」の執筆人は世代的に共通のものを持っているかたばかりで、そんなに違和感がない。でも、それが問題ではないかという疑問です。 僕は読者のひとりなので、詳細なデータを持ちあわせていませんが、読者層の年齢層がひょっとして三十代(1960年代後半から1975年頃生まれ)の人が空欄になっているのではないかという疑問です。個人的に僕の周りを見ても、学生さん(二十代)か、四十以上の人が「風の旅人」を購入しているのですが、三十代がいないのです。

 そんな連想から1972年生まれの保苅実さんの掲載が新鮮に感じられたのかもしれません。」


 「風の旅人」の執筆陣は確かにこれまで30代がいませんでした。でも写真家は、30代も20代もいました。そこらあたりのことを、説明してみます。

 おそらく、「風の旅人」の執筆陣の言葉は、「世代」で括れない人たちだと思います。95歳の白川さんをはじめ。「世代」ではなく、「超越的」なんです。

 「超越的」というのは、どういうことかというと、その時代の大勢の傾向に媚びないし、迎合もしない。もっと本質的なところで、モノゴトを考えている。そして、そうしたスタンスは、世の中で孤立しがちです。だから、今でこそ高い評価を受けていますが、ほとんどの人が、最初は異端扱いされていました。

 そして、孤高の立場でオリジナルの言葉を磨いていくわけですから、他者を説得できる領域に至るまでに時間がかかる。特に、今日の社会において超越的な立場でモノゴトを考えようと思うと、専門分野の領域に秀でているだけでは難しくて、様々な文化領域を融通無碍に行き交いながら、そこで展開されている見識を凌駕できる思考と表現力が必要です。そういう域に達するのに、それなりの歳月が必要になる。というような事情があって、執筆者の年齢が40歳以上になっていたのかも知れません。人選を行う場合は、いちいちそういうことを考えずに、その人が発信している”言葉”だけを見て判断してきましたけど。だけど、経歴とか実績とか年齢を見ずに、そこに書かれている言葉だけを読んで、信頼に値するかどうか判断することは、とても大事だと思います。

 しかし、表現者ではなく読者は、執筆者が構築した世界の機微を表現できなくても受信する力さえあればいいのですから、10代でも20代でも30代でも関係ないのです。たとえば保坂和志さんの読者は、同世代よりも、むしろ若い人に多いのではないでしょうか。その理由は、これから人生を生きていく人にとって、巷に流布している「大勢の人が正しいと思っていることを正しいと言う簡単なスタンスをとる大人」を醒めた目で見ることが大事だと本能が囁いているからかもしれません。大勢の人が好むことを真似するのではなく、自分の頭でモノゴトを考え、自分の表現に高めていった大人の考えに触れることを望むこと。それは、好き嫌いというより、生命体として、自分の人生を良いモノにしていきたいと願う本能によるものだと思います。しかし、それでも保坂さんの小説がベストセラーになるわけではない。その理由は、「大勢の人が正しいと思っていることをした方が、自分の人生に有利」と若い人に擦り込む力が強すぎるからです。マスコミだけでなく、学校教育や家庭の躾も含めて。大勢の人が正しいと思っていることが、10年後にどうなるか、深く洞察することもなく。

 そして、写真の場合は、この広大な世界を看破しながら生きていくうえで、自分のスタイルを確立していくのに、「言葉」ほど年齢的な積み重ねを要しない。それは、無意識の力で表現が行えるからです。「言葉」というのは、必然的に無意識の中から意識の領域に掬いあげていくプロセスを必要としますから、時間がかかる。それゆえ、20代、30代の人が撮った素晴らしい写真と、40代、50代の人の素晴らしい言葉がシンクロできることはある。しかし、その逆は、ほとんど不可能なほど難しい。双方の表現物が同時に出ていった場合、成熟した一流の写真家の写真に対抗できる言葉を20代の人が発することは難しい。たとえば、サルガドとか野町さんの写真に対しては、白川静さんの言葉だから拮抗できるということがある。「風の旅人」の執筆者は凄い人ばかりですが、それでも、「言葉は写真の力に適わないと痛感させられる」と「風の旅人」を見るたびに言う人は多い。

 でも、それは違っていて、「言葉」なくして探究はない。また、無意識の中だけでなく、それが意識の領域に結びついてこそ人間の納得力は高まる。だから、どうしても「言葉」が必要になる。「言葉」を抜きに写真だけを見せても、「風の旅人」が伝えたいことは伝わらない。だから、あれらの強力な力をもった写真に、なんとか食らいついて、ぎりぎり拮抗できる「言葉」の担い手が必要だ。

 それで、保苅実さんという人は、やはり稀有なる人で、この人が夭折したというのは、人智を越えた特別な意志というか天命を感じてしまう。

 「風の旅人」の第16号は、「HOLY PLANET」というテーマだが、そのなかで、本橋成一さんの写真と保苅さんの文章が30年の年齢を超えて協奏できていると私は思う。

 保苅実さんは、「今日の学問の在り方」に反発や疑問を持っていて、それを自分なりの方法論で越えようとした人だ。だから、保苅さんの書いていることは、世代論で括れず、今日の時代のパラダイムと対峙するうえで、とても大事なことを言っていると私は直観し、共感して、「風の旅人」の16号に掲載した。「学習」するということは、本来、世界と自分のつながりを見つけていくことであった筈なのに、学べば学ぶほど世界と自分が切り離されていく。そういうことに対する問題提起を、ただ問題提起するだけでなく、「それならばどうすればいいというんだ」と、想定される反論に対して、先回りをして答えていくスタンスを保苅さんはとっている。

 でも、実はこのスタンスというのは、「学習」によって世界と自分が切り離されていくということを当たり前のこととして感じられる時代に育った人から生まれてくる必然があったとも言える。

 「学問」の胡散臭さを時代が十分に学んで、「先生」が聖職者でなくなって、「先生」とか「知識人」いう肩書きだけで偉いわけじゃないということを当たり前のこととして感じて共有できる空気。保苅さんは、そこから思春期をスタートして、世の雑音に紛らわされずに自分の思考と表現を作りあげていった。私達の世代は、もう少し年をとってから「学問や大勢に迎合的なインテリのうさん臭さ」に気づいた。そのように時間的なズレがあるがゆえに、やっていることは違ってくる。だけど、根っこの部分は同じ、ということがあるのかもしれない。おそらく、保苅さんのような人が出て、強大な権威の前に自分の小ささを感じて縮こまっていた若い人たちの中から、「なんだ、やっぱりそういうことでよかったんだ」と勇気を得る人が増えるのではないだろうか。若いラディカルと言われる研究者や表現者が以前からいたことはいたが、その方法論の多くは、新しいカテゴリーをつくり出すことにすぎず、保苅さんほど真正面から敵の懐に斬り込んでいった人はいなかったのだから。