世界と呼応する力

 今日の午後、錦糸町の現代美術館で開催中のイサム・ノグチ展を見た後、東京駅の大丸美術館で開催中のキリコ展を見る。

 ギュスタブ・モローもそうだった(http://blog.livedoor.jp/kazetabi55/)けど、キリコ展もあまりいいと感じない。どうも私は、幻視美術から何かを感じ取ることが苦手なようだ。

 抽象絵画は、木村忠太など大好きだし、セザンヌの晩年もカンディンスキーも好きだ。

 見た目は同じように抽象的に描かれている絵でも、観念で抽象的な絵姿を描いているものと、世界と呼応する結果、必然的に抽象的な色や形になっていくものがあるような気がする。

 前者は、見て面白いとか、着想が変わっているとか、暗示的だとか、色が綺麗とか、そういう感じでの付き合い方になってしまって、私には面白くない。

 しかし、後者は、描き手の世界との呼応が揺らぎとなって伝わってきて、視る側の内的体験になる。その体験が深い呼吸のような質感となって心に余韻を残す。すなわち、自らの身体的な記憶として掌握した新たな世界となる。そういう絵を見た時は、とても充実感がある。

 残念ながらキリコ展では、そういう充実はなかった。 

 イサム・ノグチの彫刻は、初期のブロンズ作品は、観念を強く感じ、呼応できなかった。中期から後期の石の作品には、深い呼吸のような質感を強く感じた。しかし、その感覚は彫刻の造型に対するものなのか、磨き上げられた大理石の素材の質感に感じたのか、わからない。でも、余韻は体験として残った。

 それはさておき、現代美術館の常設展には、舟越桂の三体の彫刻があるが、これはとても凄い。20世紀彫刻は、ロダンの影響から逃れていく道を辿ったと言うが、下向きの力に必死に抗う力が、いかにも重々しいロダンの彫刻に対しては、この舟越桂の三体の彫刻を対峙させたいくらいだ。ネアンデルタール人より華奢で臆病で繊細ゆえに生き残ったホモサピエンスサピエンスの末裔としての人間の、弱さ、はかなさ、苦しさの底に流れている祈りの吐息のような強さが、舟越氏のこの三体の彫刻から滲み出ている。

http://www.mot-art-museum.jp/ex/plan4.htm ←この展覧会の作品のうちの三つが常設されている。)

 人間は、屈強な身体と野蛮な闘争心で自然世界と闘って氷河期を乗り切ったのではなく、不安のなかで耳をすまし目を凝らし、自然世界と呼応することで生き延びたのだろう。