若者と大人と社会って?

 昨日、NHKの番組で、「日本のこれから 知っていますか?若者たちのこと」と題する番組があった。泉谷しげるが言っていたように、VTRが多すぎて、議論が中途半端だった。NHKも番組の体裁をつくろうとして特定の若者の生活とかをダラダラを取材してVTRを制作しているのだが、個人の若者にクローズアップして、それを若者全体の象徴のように一般化してしまう方法はとても疑問だ。また、ゲストの平山あやという子が、最後のコメントで「大人の話しは難しいんですよ」と言い放っていた(たいして難しい話しではなかったが)が、こういう言い放ち方は、話しについていけない自分が悪いのではなく、難しい話しをする方が悪いと開き直っているように聞こえる。しかも、その“大人”って誰のことを指しているのだろう。21歳(らしい)の自分は大人ではないのだろうか。彼女の言う”大人”って社会人ということなのだろうか。フリーターは、社会人でもなく、大人でもないということだろうか。それはさておき、そういう発言しかできない彼女を若者の代表という形で出すNHKは、あまりにもステレオタイプだ。一般からの参加者にしても、自ら進んで出てきた人たちだけだと真面目でつまらなくなると考えたのか、渋谷のセンター街をヤマンバ化粧をして歩いていた女の子を説得して会場に連れてきたみたいで、その子らは、最後の一言で、「私たちに何を求めてんのかさっぱりわかんねえ」と、毒づいていた。

 世間で既にイメージされている一般的な構図をテレビのなかで作って、そのなかで、「こういう現状は問題なのか、それとも問題はないのか」と二者択一のアンケートを求める。そして、アンケートの結果として、<こういう事態を社会的に解決していかなければならない問題だと考えている人が多くいる>で締める。

 そうした安易な態度こそが一番の問題なのではないか。

「社会的に解決しなければならない」などという答弁は無難だけど、そういう言い方をする人は、“社会”というのは、政府や自治体や大企業のことを指して、自分は含まれていないと思っているのではないか。若者自立支援のために国民一人一人一万円ずつ出しましょうと言っても、おそらくほとんどの人が、「冗談じゃない、こっちだって苦しいんだ」と反発するのではないか。

 社会、若者、大人という言い方はとても一般的で、具体的に何や誰を指しているのかよくわからない。よくわからなくなるから、特定の個人を取材したVTRを長々と流して具体例にしたがる。長々と流すものだから、それを見ている人は、若者全体のイメージとして捉え、こうした深刻な状況を社会的に何とかしなくてはいけない、と感傷的な反応をする。

はっきり言って、こんなことやっても何にもならない。社会全体がどうのこうのではなく、若者も大人も、各個人がそれぞれの現場で毎日を生きている。大人と若者という一般論の話しではなく、企業の現場だと、先輩と後輩もしくは上司と部下。家庭のなかだと、親と子。すなわち、人間対人間。社会全体の心配をする前に、まず自分の現場でどうすべきかということが先決。社会を心配するふりをするテレビ局などは、高い平均賃金を2,30%削減して、その分、多くの若者を採用する気があればいいのだけど、そんなこと考えてもいないだろう。取材してVTRを作った無職の若者たちだけでもまず採用すればいいのだけど、結局は、自分のところこそが中卒とかドロップアウトを書類選考で落としてしまうのではないか。

 自分を除く“社会”に「しっかり対応しろよ!」ということは誰にも簡単に言える。

採用する人を厳しく人選して、多くの人を切り捨てるしかない体質を自分のところが抱えているのならば、「こういう状況は問題です」という深刻面をした番組をつくるのではなく、「こういう状況のなかでも、なんとか工夫したり努力して切り抜けている人もたくさんいるんです。だからみんなも勇気をもって頑張ろうよ」という番組を作った方が、まだ正直だという気がする。楽観的すぎるかもしれないが、そういうやり方で自分も頑張ろうと思う人が出る可能性は、たとえ僅かでもあると思うが、「社会的に対応していかなければならない」という番組を見て、採用方法を変えようとする企業が現れる可能性はとても低いのだから。