自分のやりたいこと?

「自分のやりたいことがある。でもそれをやる為には困難が多い。そして、生活は苦しくなる。こうなる理由は、大人が作った社会が悪いから。だから、社会的にこの問題を解決していかなければならない。または、自分の務めている会社では、自分のやりたいことができない。だから不満だ。だから、辞めたい。自分のやりたいことができる<場>がなかなか見つからない。そんな社会はつまらないし、問題が多い。」といったことが、現代の若者の問題としてメディアに取り上げられる。

 しかし、昔だって、作家や画家とか実業とか、自分がやりたいことを目指す人には、今よりも悲惨な極貧時代があった。社会の歯車の外で生きようと思えば、それなりの大きなリスクがあって、そのリスクを背負ってもやらなければならないという強い気持ちがあって実行していくからこそ、いろいろな知恵がついて自分も鍛えられる。自分を鍛えなければ、自分で自分のレールを敷くことは不可能で、人の敷いたレールの上を走るしかない。自分で自分のレールを敷くのは難しいと自己評価している人や、リスクを背負いたくない人は、最初から諦めるか、潮時を見極めて、諦める。そんなことは、昔も今も同じ。社会が問題なのではなく、社会とはそういうものだろう。知恵もつかないままで自分を鍛えきれていない人があちこちにレールを敷いても、そのレールは危なっかしくて、他の人は乗れない。そういうレールがあちこちにできて、人間社会が成り立つはずがない。極貧を含めた苛酷な環境を生き抜いてでも自分のレールを敷くのだという強い覚悟を持って、様々な逆風のなかを強かに乗り切って知恵を蓄えた人が敷いたレールだからこそ、その他の多くの人が、そのレールに便乗させてもらって、なんとかやっていけるのだろう。

 ”自分らしく”という言葉が大流行なのだが、自分らしさというのを、自分のレールを敷くことだと考えているのなら、それ相応のリスクと覚悟と信念が必要だ。しかし、その覚悟や信念がないのなら、他の人が敷いたレールに乗らせていただいて(という謙虚な気持ちをもって)、自分の車両を自分らしく仕立て上げることを目指すしかないのではないか。その方がリスクは少ない。信念もさほど必要はない。しかし、その車両に乗る他の人にとってはメリットが生じる。そこに存在価値を見出すことはできる。

 

 ”自分らしく”というのが、自分のレールを敷くことなのか、人が敷いたレールの上を走らせる自分の車両を磨き上げることなのか、混同してしまった議論が多い。

 どちらが良いとか悪いとかということはないが、敢えて悪いことを指摘するとすれば、自分のレールを敷きたい願望はあるのだけど、自分のなかの何かを犠牲にしたくないと都合のいいことを考えている人が多いことだろう。採用面接などにおいても、自分のプライベートも大切にしたい、好きなこともしたい、いい仕事もしたいと、それだけの自分のキャパを作りきれていないのに、欲求だけが過度な人も多い。

 自分が欲する環境を手に入れたければ、自分でつくり出せばいいのだが、その心意気も覚悟もない。人が作った環境のなかで、良いところ取りをしたがっている。

 今は少ないが、<風の旅人>を立ち上げた頃、編集の経験者などが、「今の日本には自分のやりたい雑誌がない。<風の旅人>は、自分の理想を実現できそうな雑誌だ。だから応募した。」という人がけっこういた。なかには、他の会社の面接時に、その会社が作っている雑誌を尊重せず、<風の旅人>のような雑誌を作るべきだと主張しましたけど、全然伝わらなかったのでガッカリした、ということをしたり顔で言う人もいる。

 そういうことを聞いて、私が喜ぶと思ったら大間違い。

 けっきょくそういう人は、人が作った環境のなかで、あれこれ言うだけ。自分でリスクを取って、何かを立ち上げようとする心意気はない。<風の旅人>だって、運営していくためには意に添わないこともいろいろやらなければならないのだが、観念の理想主義者は、そういう譲歩をするとすぐに不満になるし、それをやった途端、「なんだやっぱり<風の旅人>も自分の期待していたものと違うね」みたいな雰囲気になる。

 事実、そうなることが予想されるので、何人か体験アルバイトをさせて様子を見たが、たとえば書店周りの営業とか、東京ビックサイトなどのブックフェアのブースでお客さま対応とかをしてもらうと、「自分の仕事はそういうことではない」という態度になってしまって、イベントには二日目からは来ず、にもかかわらず、編集の仕事はそれとは別に続けられると思っていたりする人もいる。

 そういうことが重なったので、編集経験者は採用せずに、まったくの素人でもかまわないから、自分のキャパを広げるためにどんなことでも真摯に精力的に働こうとする人だけをスタッフにすることにした。

「<風の旅人>なら自分の理想とする仕事ができそうです」などと、他人が作った環境に期待する人と、私は一緒に仕事をしたいと思わない。

 大きなリスクを負いたくないのなら、人が敷いたレールの上で、自分の車両を磨くことを目指すしかないのだけど、人が敷いたレールの上を走らせていただいているという感謝の気持ちが弱いために、そのレールそのものに対して不平不満を言う人がいる。そして自分の気持ちが不平不満の方に傾いてしまうので、レールの上を走らせている自分の車両も磨けず、そこでも”自分らしさ”を発揮できないものだから、ますます不平不満が強くなるという悪循環に陥ってしまう。

 こういう循環をつくり出している原因は、いろいろある。

 自分のレールを敷いて走っている人の苦労をあまり伝えず、格好いいところばかり見せるメディア。もしくは、本当は社会の仕組みの中に巻き込まれているだけなのに、運を掴んで自分のレールを走っている人がたくさんいるように見せて、必要以上に人々を焦らせるメディア。または、大きなリスクを背負って会社を作って運営している人に対して、会社の都合で人を採用するのはよくないとか、パートではなく正社員を多く採用しなさいと、無責任な発言を繰り返すインテリ気取り(自分は、大学とかどこかの組織で安穏と給料をもらって外から調査をしたり意見を言うだけで、自ら会社を作って雇用をつくり出す心意気などまったくない)の多さと、その人たちを重宝するメディア。

 昔と今は、人間の営みの根本的なところで多くは変わっていない。しかし一番変わったことは、メディアによって、安易な価値観が日本国中にあっという間に浸透させられてしまうことだ。メディアが撒き散らす安易な価値観に対する備えを、学校教育のカリキュラムのなかに取り入れるべきかもしれない。