昨日の続き

 昨日の日記で、

「・・・・・そういう人の一部は、現在の「言葉」(大脳新皮質の産物)にほとんど期待していない。彼らは、音楽を愛好している。音楽によって、「言うに言われぬ気分」のなかに確かに在るものを満たしている。それは昔の人が、大脳新皮質に寄りかからない方法で、知恵を共有したことと類似しているかもしれない。」

 と書いた部分で、「中途半端に書いてしまったなあ、そこから先があるよなあ」と思っていたところ、そのさらなる先の奥深いところを、同じ内容のことを添付した「ミクシィ」のコメント欄でズバリと書いてくれた人がいて、それに刺激されて、もう少し考えてみる。この問題は、現在構想中のVol.18(2月1日発行)〜Vol.19にも関わってくる問題なので・・・・・・・。


 巷に流布する「言葉」に期待せず、「言うに言われぬ気分」を音楽で満たそうとする人はとても多い。本を読まない若者が多くいても、音楽を聴かない若者はめったにいない。インターネットや携帯をつかった音楽関連の技術革新も目覚ましい。しかし、「音楽」で「言うに言われぬ気分」が完全に満たされてしまうのなら、それでいいのだが、そうはならない。その理由は、やはり人間が、本人が意識しようがしまいが「言葉」のうえに成り立っている存在だからなのだろう。

 例えば「風の旅人」への掲載を決めた写真家で、ごく稀に、「僕は言葉で勝負していない」とか「言語化できないから写真を撮っている」とか「見る人が自由に解釈してくれればいい」と言う人もいる。しかし、私は、必ず、写真家にも文章を書いてもらう。

 「言語化できないから写真を撮っている」とか「見る人が自由に・・・」という言い方は、ある意味では正しい。だから、作品に対する解説や分析は必要ない。

 しかし、「言葉で言えてしまえば苦労して写真を撮る必要はない」という言い方は正しくても、「言葉で言えてしまえば・・・・」と思うほどに、そのことを本当に深く考えているかどうか(考えることは、言葉抜きにできない)は、端的に写真に反映されてしまう。

 表現方法は、絵であっても写真であっても構わないのだが、思考という「探究」は言葉無くしてできない。

 そして表現者が「探究」を経て掴んだ伝えたいことは、見る側が勝手に解釈すればいいのではなく、伝える側が伝えるべきことを対象から引き出そうと奮闘(探究)することではじめて伝わるものであって、その奮闘は、「言葉」の中に成り立っていると私は思う。

 だから、素晴らしい写真や絵をつくる人は、「言葉」によって奮闘(探究)を重ねており、文章の上手い下手に関係なく、いい文章が書ける。奮闘を重ねた表現者の目に入っていたもの、耳や鼻が感知していたもの、五感に入ってきたものを丁寧に書き込んでいただければ、それだけでも、その人がどのように世界と向き合って探究していたかが伝わってきて、そこに人間と世界の関係性が浮かびあがる。素晴らしい表現者であればあるほど、世界に対する感覚が深く開かれていて、ディティールに対して意識がしっかりと行き届き、見るべきものを見ようとしている。その真摯さが必然的に豊かなものを生み出す。表現者のそうした探究のプロセスは、表現者の身体化された「言葉」そのものでもあると感じる。

 文章の上手い下手などは後で調整すればどうにでもなるのであって、まずはその「言葉」を掬い取ることが大事。それができてはじめて、写真の構成とかレイアウトが生きてきて、写真がただの綺麗な飾りではなく、全体として大きな「物語」を構成していくことになる。私はそうしたスタンスで「風の旅人」を編集している。

 そして、言語の直接表現であれ、間接表現であれ、人間には「物語」が必要なのではないかと私は思う。

 人間が神から授かった大脳新皮質から生み出た「言語」は、生まれた瞬間から「物語」だったのではないかと思う時がある。

 「物語」といっても、むかしむかし・・・・というものばかりとは限らない。

 人間を包含する森羅万象には、そうなることが予め定められている厳粛な規則がある。例えば、氷は摂氏0度を超えると水になるということや、上から下に落下するといった物理法則などもそう。宇宙の誕生の時から一貫して変わらない法則がある。その一方、創り出された後に、繰り返し自己変革しながら新しいレベルの能力を付け加えていくベクトルがあって、その中にも、ある種のパターンというか規則性を見ることが出来る。例えば、植物や昆虫などの生物は、宇宙に偏在せず、地球上のある定められた環境要因に適する最も相応しいものに成ろうと自己変革する過程のなかにある。それと類似したダイナミズムは、生物だけでなく、大地の形象などにも見出すことができる。

 動かし難い「現実」と、自己変革していける「現実」。相反するように見えるその二つは、どちらも宇宙の摂理と呼べるものだ。

 そして、予め定められた動かし難い「現実」が作る現象にも、自己変革していくダイナミズムが作る現象にも、人間は「美」を感じることができる。一方は、たとえば巨大な氷河とか銀河宇宙とか、もう一方は、植物や昆虫の姿形や大地の造形等々。

 そして人間は、短い一生の間に、宇宙を貫く二つの摂理が自分のなかに宿ることを悟る。自分の意思とは無関係に授けられ滅んでいく「肉体」と、自己変革し続ける「精神」。他の生物の場合、世代交代を繰り返すことで自己変革の足跡を知ることができるかもしれないが、一世代の一個体の認識力でそれを知ることは難しい。しかし、人間は、豊かに発達した大脳新皮質によってそれが可能になる。

 そして、大脳新皮質が生み出す「言葉」は、自らのなかに「宇宙の二つの摂理」が宿っていることを認識したその瞬間に誕生したのではないか。その二つの摂理を認識するということは、「動かし難い現実」を認識しながら「自己変革していける現実」=「意志」を認識することですから、その二つの「現実」の間で引き裂かれることでもある。 

 その引き裂かれの間を繋ぐものが、「言葉」だったのでは。それゆえ、「言葉」は誕生した時から、「宇宙の二つの摂理」をつなぐ「物語」だった。たとえ短いセンテンスであったとしても。そしてその「物語」は、「言葉」の担い手のなかで「モノローグ」という形式をとっているのではないかと私は想像する。

 だから、大脳新皮質の発達によって必然的に「宇宙の二つの摂理(肉体と精神)」を認識し、その間で引き裂かれる宿命にある人間は、その間を繋ぐ「言葉」=「物語」を必要とした。その「言葉」=「物語」は、霊妙なものであった。古代における「文字」が、呪術的なものだったのは当然のことだと思う。 

 しかし、人間は、3000年ほど前、諸民族の間を自由自在に動いて商売を行ったフェニキア人が交易に便利な共通語としてのアルファベットをつくり出した。現在の西洋言語の源はそこにあるのだけど、「言語」を交易という現世の処世に役立てるものに改良した時から、人間は、「言葉」の使い方を間違えるようになった。「宇宙の二つの摂理」をつなぐ霊妙なるものとしてではなく、宇宙を従属させるために「言語」を使うことが普通になった。「言語」による思考=探究の多くは、宇宙を「言語」の支配下に置くことを目指したものとなり、それがゆえに「科学」の発達も可能になった。この癖は、科学者に限らず、多くの教育現場やテレビのなかにも浸透してしまっている。分析というのは、対象を「言語」の支配下に置くことなのだから。

 そうしたことに自覚的な「言葉」の担い手は、いつの時代にも存在して、苦心しながら「言葉」を、本来の場所に戻そうと奮闘している。「はじめに言葉があった」と。

 フェニキアの言語革命の後に、その言語体系を活用して一神教の宗教や普遍的真理を追求する哲学が整っていったことはとても興味深い。フェニキアヘブライユダヤキリスト教)、ギリシャ語(ギリシャ哲学)、アラム語アラビア語)等々。

 そうした苦心が「詩」だったこともある。しかし、いつしか「詩」が自己憐憫や心情吐露や言葉の分解作業になってしまい、そのほとんど全てが自分の現状を中心とした狭い枠組みの思考の中に閉じこもって、「宇宙の二つの摂理」の間を繋ぐ「物語」から遠いところに行ってしまった。自分の現状を中心として表現していくのは仕方がないけれど、そこから外に向かって何らかの展望を見出そうとしなければ、中心に向かって閉じていくだけで、「宇宙の二つの摂理」を繋ぐ橋にはならない。

 また、「小説」と名付けられるものも多々あるが、そのほとんどが、「現状」を「言葉」によって従属させようとしているか、「言葉」を便宜のためだけに使っている。

 極めて少数の人だけが、「動かし難い現実」と、「繰り返し自己変革しながら新しいレベルの能力を付け加えていくベクトル」という宇宙の二つの摂理の間に立ち、「言葉」が本来あるところを目指して深く沈潜しながら、宇宙全体を看破し、今日に必要な新しい「物語」を醸成しようとしている。

「風の旅人」は写真を多く掲載しているが、「言葉」をとても大切にしたいと思っている。だから、「言葉」の担い手として信頼できる人に執筆をお願いしたいと考えている。

 二つの摂理に引き裂かれた人間は、自らを救うために、その間を繋ごうとして探究したり繰り返し自己変革したりするのだけど、その過程は、「モノローグ」という形でしか表せず、その「モノローグ」のためには、「言葉」が絶対に必要だからだ。

 「風の旅人」のVol.18(2月1日発行)とVOL.19(4月1日発行)で構想を練っているのは、上に書いた二つの宇宙の摂理である。