曖昧と論理

 昨日、立教大学で行われた「環境と文学のあいだ」を聴講する。

 プログラムは、石牟礼道子さんのビデオ講演+朗読、田口ランディさん、川村湊さんの講演。

 石牟礼さんの講演と朗読は、時折何を言っているのかわからないのだけど、終始不気味な気配がたちこめていて、知らず知らずその世界に引きずり込まれてしまう。

 ちょうどこのイベントに行く前、保坂和志さんからいただいた、保坂さんと小島信夫さんの風変わりな対談が収録されたCDを自宅で聞いていて、それが石牟礼さんの講演や朗読ととてもシンクロしていて不思議だった。

 その二つは、明瞭な「意味」に辿り着くことを目的としているものではないが、何もないわけではなく、「言うに言われぬもの」を志向していく強い思いが渦を巻いて、その渦のなかに周りを巻き込む強烈な磁力がある。

 世界と向き合いながら、世界と向き合っている自分自身を世界の前にさらけ出すためには、「言葉」が必要になる。その時、世界に対して真摯な人は、どの「言葉」を選択するか、悶々と自己問答をして、「言葉」を選ぶ。その瞬間、言い損なった(言葉を掴み損ねた)かもしれないと、また自己問答する。その悶々さが気配となって滲み出てくることで、「発せられた言葉」よりも、その人のなかに「沈んでいる言葉」が逆に浮かび上がる。「沈んでいる言葉」は、手に届かないところにある「宝」であり、精神の鉱脈というべきもの。「沈んでいる言葉」で成立する「対話」は、日常に溢れる「言質」の取り合いのような通俗的なコミュニケーションに辟易している私たちに、人と人、人と世界との新しい関係性を垣間見せてくれる。

 「言質」の取り合いというのは、何もインターネット内の掲示板などで頻繁にある言葉尻をとった言い争いに限らない。インターネットの匿名世界には、現代人の思考の癖が端的に反映されているにすぎない。たとえば、双方の実証的事実をぶつけ合いながらの学説の闘いや面接などにおける質疑応答、それ以外にも数々の例があるが、「言葉」が、相手の要望に応えたり、相手を論破することの手段としてのみ扱われる場合、「何を言ったか」だけを重要視されて、相手の中に沈んでいる「言葉」は「無」とされる。

 外に出てきた「言葉」は、相手のほんの一部にすぎず、その背後にある膨大な「言葉にならない言葉」こそが、相手の「言葉」であることなど、まったく想定されていない。そのように「言葉」が道具に貶められることが、「言質」の取り合いを生み出す現代社会の構造なのだ。実際に、水俣病の現場でも、チッソ工場が地元の経済を支えていたこともあって、水俣病に苦しむ人たちを「言葉」の暴力で中傷する匿名のビラが撒かれていた。週間誌などの取材で、「一言お願いします」の、その一言が、大きな活字になって一人歩きしていくことも同じだ。

 石牟礼さんの仕事は、「言葉」を使って水俣病患者の窮状を客観的に紹介したのではない。また、水俣病の原因をつくりだしたチッソ工場を政治的な言葉で攻撃したのでもない。といって、「言葉」の暴力で水俣病の人たちを攻撃する人たちと、正義をめぐって論争しているわけではない。

 客観的紹介も、政治的な言葉による攻撃も、正義の論争も、「言葉」の道具的使用を通して、同じ陥穽のなかにあるのだ。

 石牟礼さんは、それらの「言葉」を通して現れる「この時代の人間の思考」と闘っている。その闘い方は、同じリングの上に立って、殴られたら殴り返す(言われたら言い返す)という闘い方ではない。そうしたスタイルの闘い方は、それだけで既に「言質」の取り合いという通俗的闘いの別バージョンにすぎないからだ。

 そうではなく、自分のなかに「沈んでいる言葉」を何とか浮かび上がらせようとしながら、この時代の時空を少し歪ませ、軋ませ、対立概念を無化していく。石牟礼さんの「言葉」にはそういう力を感じる。保坂さんと小島さんの対話にも、それに似たところがあった。

 それでは、その力とはいったい何だろうか。

 敢えて「言葉」を用いて言うなら、「狂い」だと私は思う。

 石牟礼さんは、講演のなかで「相手とともに狂ってみせる」という言い方をしていた。

 「頭が狂っている」という言い方をされてしまう可能性のある「狂い」。といって、ハチャメチャであればいいのかというと、そうではない。ハチャメチャな行動をしていても、その人の中に「沈んでいる言葉」は、世間の価値観に媚びていたり、その価値観を利用しているだけのことがある。「有名になりたい」とか「目立ちたい」とか「好きにさせてもらう」とか・・・。

 他者を排して自分を優位にしたい気持ちから生じる「狂い」は、パフォーマンスにすぎず、それは、時代の価値観に寄りかかっている心情の結果であるから、時代に毒を盛ることなどできやしない。 

 私がここで言う「狂い」とは、世間の価値観とまったく別の位相に立って、世間を覆い尽くす「常識」の範疇をずらしていくこと。

 それを行おうとする人は、本人が意識しようがしまいが、自分のために狂うというより、人類に対する責任を宿命として背負ってしまっているところがある。他人との関係云々ではなく、人類に対する過剰な責任。それは、祟りのようなもの。その人の狂いは、相手を巻き込み、相手とともに狂ってみせようとする底深いエネルギーであり、それは、他者を排する気持ちではなく、分かり合おうとする気持の極限の高まりのなかで出てくる。その狂いは、恐いものだが、相手にとって救いをももたらす。なぜなら、その人とともに少し狂わされることで、自分の想像力を超えて、狭く閉ざされた世の中のパラダイムの向こう側を垣間見せられ、自分の悩みが、狭く閉じたこちら側の世界のなかに限定されたものだと知らされるのだから。

本物の芸術家には、そういう狂いの力がある。

 そうした本物の芸術家は、「感性」の人ではなく、実は、根本のところで「論理」の人だということが、石牟礼さんの話しや、保坂さんと小島さんの対談から滲み出ていることが、さらに大事なことを示している。

 「曖昧」と「論理」が対極にあるように思うのは、現代のパラダイムにすぎない。

 「論理」というものを、理論武装のように、既に形あることや知識を組み合わせて言語世界を構築することだと思っている人が多いが、私はそう思わない。

 本当の論理的思考は、「言うに言われぬ領域」に言語を当てはめていこうとするプロセスのことを指すのだと思う。 それは正しいか間違っているかではないし、人と議論するためのものでもない。「言うに言われぬ領域」に限りなく接近していこうとする言語的努力こそが、論理的思考であり、論理的思考が優れた人は、「言葉」になった瞬間、その「言葉」と「言うに言われぬ領域」の距離を敏感に察し、その距離を埋めていこうと、思考の運動をさらに加速する。

 保坂さんとの対談で、小島さんが喋りっぱなしのモードに入っている状態の時、小島さんは、自分のなかの「言うに言われぬ領域」を言語化しながら、すぐさまそれを「じゃないかもしれない」と打ち消し、また新たな言葉をつむいでいくのだが、その速度はとても速い。喋りながら、同時進行的に自分の発する「言葉」に対して、常に“引っかかり”を感じている。その“引っかかり”は、「言うに言われぬ領域」との距離を敏感に感じ取るからであって、論理的思考の弱い人は、そうしたダイナミックな思考の連続ができない。

 また、石牟礼さんは、講演のなかで、「どの言葉を選択するか、その選択において、何を基準にするか、時代によって異なる」とはっきりと言っていた。石牟礼さんはとても呪術的な言葉で作品世界を作り上げているので、自分の内側から沸々と生じてくる言葉をそのまま使っているように見えるが、実は、厳密な「選択」がなされている。それは社会に媚びるためのものではなく、「言うに言われぬ思い」と照らし合わせて、直観で的確で適正な言葉を選択すること。その的確さや適正さを計る直観力は、まさしく論理的思考の賜だと私は思う。

 石牟礼さんならではの感性というのは、自分のなかの「言うに言われぬ領域」を言語化しようという努力の上に築かれている。それなくして、自分の感性を反映させた行動や仕事というのは不可能になる。行動の際に、心のなかに引っかかりが生じて行動を修正していくのは、「言うに言われぬ領域」の力が強いからであって、本当の意味で「感性の力」というのは、そういうものだろう。その力の強さは、「言うに言われぬ領域」にこだわり続けて、自問自答し続けることで培われていく。

人を、感性の人か論理の人で分けたりすることがあるが、それは違っている。感性のない論理的思考も、論理的思考のない感性もありえないのだから。

 「世界のありよう」や「言うに言われぬこと」の刺激に敏感で、それを正しく掴もうとする意欲や意志の強い人と、「世界のありよう」や「言うに言われぬこと」の刺激にはあまり反応せず、既存の情報知識を仕分けする記号的言語に左右されがちな人(その扱いが得意か不得意かの違いはあるけれど)の二つのタイプが現代社会には存在すると言った方が正しいのではないかと私は思う。