相互理解への願いと「表現」

 一昨日の立教大学のイベントにおいて、石牟礼さんのビデオ講演の後を受けたのが、田口ランディさんだった。

 会場には、ランディさんの人気もあって、大勢の若者がいた。

 ランディさんのファンの若者は多くいるのだが、ランディさんに対する評価に関して、文壇とかその周辺にいる人で間違った解釈をしている人が多いと、私は思っている。

 石牟礼さんの講演に比べて、ランディさんの講演はとても明瞭である。石牟礼さんは、石牟礼さんの中の「言うに言われぬ思い」を言葉で正確に摘もうとすればするほど、呪術的な表現になる。現世の「言葉」では捉えきれない難しい世界がそこにあって、その距離感や歪みが、石牟礼さんの芸術の力になる。しかし、その難解さの分だけ、一般受けしにくい。(一般受けなど、大して重要なことではないが)。

 それに比べて、ランディさんの「言葉」は文章でも講演でも明瞭である。その明瞭さゆえに、一般受けしやすい。そして一般受けすればするほど、文学的価値と認めたくない人が、旧体質の世界に未だ数多くいるように思う。

 しかし、ランディさんは、決して安直なことを表現しているわけではない。とても、根元的で本質的なことに迫ろうとして「言葉」に携わっている人だと私は思っている。読者の好きそうな話題で、読者の知的レベルを安く見積もって、読者に媚びて表現しているのではないのだ。

 ランディさんは、難しくてデリケートなことを伝えようとしているのだが、普段、本を読まない人も含めて、多くの人がランディさんの表現に反応する。普段、本を読まない人でも反応するということで、安直なものだと評価する短絡的思考の人もいるが、そういう人は権威におもねる人が多い。

 ランディさんの表現に対して、普段、本を読まない人でも反応するというのは、そこに娯楽が提供されているからではなく、大切な何かが煌めいているからであって、その理由を深く考えなければならない。

 私が思うに、石牟礼さんには石牟礼さんの「言うに言われぬ思い」があるが、ランディさんにとってのそれは、「現代のコミュニケーションそのもの」ではないかと考えることがある。

 一昨日の講演でも、主題は「環境」と「言葉」だったが、その向かう先は、現代のコミュニケーションを司る標準語が人間の生命力に直結する情動の伝達を苦手とする問題や、縄文時代から続く日本語(国家より長い歴史を持つ)が内包する<未来への可能性>というものだった。

 ランディさんが、表現を通して伝えようとしている「言うに言われぬ思い」は、自分と他者が分かり合うことの難しさであり、それを乗りこえていこうとする精神のダイナミズムそのものが、ランディさんの表現となっている。すなわち、「相互理解」が表現の核にあるものだから、自分が表現する際にも、相手に伝わるようにするためにはどうすべきか、ということが常に大事にされているように思う。

 だから、講演などにおいても、「環境」と「言葉」というとても難しいテーマを語りながら、一方的な講義ではなく、そこにいる人たちの顔を見て、いろいろな間合いを考えて、相手に考えさせたり、自分の自問自答を伝えたり、一人で喋っているのだけど、聴衆との心の「対話」になっている。だから、相手は、話されている内容が自分事になって、難しいテーマなのに退屈しない。

 ランディさんの中にある「他者との相互理解を切望しながら、なかなか簡単にはいかない」という「言うに言われぬ思い」は、現代社会に生きる人にとって、もっとも切実な思いでもある。イラク戦争とか、パレスチナ問題とか、アフリカの難民問題も大事だけれど、自分の心の深いところに耳を傾けて、自分にとって何が一番切実な問題なのかと問いかけると、「自分は本当に他者を理解でき、他者は本当に自分を理解できるのか」という自問自答が渦巻いているのではないかと私は思う。

 にもかかわらず、その問題に向けて、真っ直ぐに表現を試みている表現者は実に少ない。

 むしろ逆に、わかりにくいことが高尚だと勘違いして、モノゴトを敢えて複雑にして伝えたがるインテリも多い。または、芸術家などにおいて、自らの中にある深淵な「その人ならではの言うに言われぬ思い」に忠実にあろうとするがために、その表現の受け手との関係は、まったく念頭に無いという人もいる。

 同時に、そうした難解さに対する反発が強まるにつれ、その空気を敏感に察して、わかりやすさを売り文句に、モノゴトを表面的に切り取ったり並べたりしたものや、人々に媚びて現状の上に胡座をかくようなものも氾濫する。そういうものが世の中に増えれば増えるほど、人と世界のあいだや、人と人との関係が切り離されてしまう。わかったつもりになって固定観念の塊になったり、わからない状態を茶化すため、悩みのない自分を無理矢理に装ったり、人のことを明るいか暗いかだけで区別したり、評価したり、仲間を選んだり、差別したりということになる。

 そして、そのように差別されたり区別されたりした時の「言うに言われぬ思い」を文学的に表現したものも多いのだが、その「言うに言われぬ思い」が、「相互理解を痛切に求める」というところまで昇華しておらず、自分の側からの一方的な告発になってしまうことが多い。そのように「区別化」されたままの表現だと、もう一方の側からは、「暗い小説」で片づけやすくなってしまう。片づけるという態度が問題なのは間違いないのだが、片づける側にも実は深刻な「言うに言われぬ思い」があり、そこを照射できなければ、双方とも対立概念の中で行き詰まったまま身動きとれなくなってしまう。

 ランディさんの表現は、表層的には対立しているように見えてしまう「暗い」と「明るい」が、「相互理解を求める衝動」という未分化の状態で融解し、その混沌の力こそが、表現の力になっている。だから、明るいようで暗く、暗いようで明るい作品世界になる。明暗の境界が消えて、ともに渦になって巻き込まれてしまうことが、多くの人を惹きつける理由ではないかと私は思っている。

 しかし、とても微妙なことだけど、私なりに一つの懸念を感じている。

 ランディさんの「相互理解」を切実に求める表現によって自分の中の「言うに言われぬ思い」を見事に照らし出された人が、「相互理解は難しい、でも、それを何とかしなくてはならない」というランディさんの根本的な精神の運動を、ランディさんが願うように、そのまま受け継いでいくのかどうかということだ。これはとても矛盾的なことで、芸術家の一種の宿業みたいなものだが、そうなれない何かがあるからこそ、ランディさんのなかの「言うに言われぬ思い」が解消されずに強くなってしまい、それが、さらなる表現の力になっていく。芸術家の宿業というのはそういうものだが、そうなる理由(と私がかってに感じているだけだが)は、どこにあるのだろうか。(私の思い過ごして、そうなっていないかもしれない。そうなっていなかったら、ごめんなさい)

 ランディさんの言葉によって自分の気持ちを代弁してもらって、救われた気持ちになる人は多い。

 でも本当に大事なことは、そこから先の、「相互理解は難しい、でも、それを何とかしなくてはならない」という領域での自分自身を掘り下げて耐性をつけること。その忍耐力や免疫力こそが本当の救いであり、本当の救いのためには、ランディさんの言葉に寄りかかってしまってはいけない。

 ある講演で、「ランディさんはわからないことを、わからないと言う。そこが素晴らしい」という感想があったのだが、「わかりにくい世の中」や「わかりにくい他人」のなかで、「わかったふりをしなくてもいいんだ」という側面は、もちろん大事なことだと思う。しかし、そこにじっと留まっていては、自分の耐性もつかないし、相互理解へのベクトルも開かれない。

 そういうことに自覚的なランディさんは、「わからなくてもいい」と言って終わっているのではなくて、「わからない。でも切実にわかりたい。わかろうと努力する自分であり続けたい」と後に続く猛烈な衝動こそを文脈のなかで伝え、その思いの「実践」を共有しようとしている。

 しかし、ランディさんの言葉によって救われることが多ければ多いほど、ランディさんが自分のなかで偉大になり、ランディさんの言葉が金言になり、そこに”依存”が生じる。結果として、自らの「言うに言われぬ思い」を伝えるために自らの頭で考えていくという苦しい努力が放棄されることもある。そうなると、「理解」は閉じたものになる危険性もあり、ランディさんの願う「大きく深い相互理解への衝動」と異なる位相のものになってしまう。そのような希望と絶望の”ねじれ”が、この表現者の宿命となり、「言うに言われぬ思い」をさらに深めてしまう。

「相互理解への願い」を実践に結びつけていくことは、両者の力が均衡していないかぎり、一方が依存的になりやすいので、そのような”ねじれ”が生じやすい。しかし、現代世界全体と真摯に向き合っている表現者は、それでもなお「大きく深い相互理解」に向けて表現をしていく宿命にあると思う。それは、今日のあらゆる問題が関係しているテーマでもある。

 現代世界を細かく区切って、その一部分に拘泥して表現するスタンスは、もはや表現そのものが目的化し、その細分化された専門分野は、プロも素人も関係なく、人の目を引くかどうかの違いでしかなくなっている。それらの閉じた分野内での競走のような思いつくままの試みの過剰こそが、現代の「相互理解」をさらに難しくしているように感じられる。