メディアの公共性

 今回、楽天のTBS買収騒動で、日本テレビの会長が、「ビジネスモデルが壊れると、コンテンツの質が下がる。それは国民にとっていいことなのかどうか」とコメントしている。

 こういうコメントを聞くと、テレビ以外の分野で一生懸命に仕事をしている人たちは、「何を馬鹿なことを言っているのだ」という気持ちになる。どういう産業であれ、厳しい競争のなかで今までのビジネスモデルが壊れ、それでも創意工夫によって商品やサービスの質を落とさないように必死に努力しているのだから。

 第一、今のテレビ局のビジネスモデルというのは、広告収入で成り立っているのであって、視聴者にコンテンツを買ってもらっているわけではない。つまり、広告スポンサーの数は限られていて、そのパイを奪い合っているので、参入企業は少ない方がいいというだけのことだ。だからおそらく民放はNHKの民営化にも大反対するだろう。

 そしてスポンサーも、番組の間に入る自社制作のコマーシャルを視聴者に見てもらえばそれでいいので、番組の内容よりも視聴率を気にする。極端なはなし、自社のイメージは、コマーシャルの内容と質で伝達すればいいのから。それは雑誌でも同じ構造で、広告に頼っていると、内容よりも露出が大事にされる。そして、露出を増やすことだけを目的にするなら、多くの人々に徹底的に媚びることが一番楽な方法だ。その媚びを、多くの人の欲求に応えることだとみなし、そのことを彼らは「公共性」だと主張している。

 現在のテレビ番組で一番問題なのは、「無料」ということだと思う。そして雑誌の場合は、広告収入を想定して、価格が安すぎること。

 もしも、高額のお金を払わなければ見られないものであったら、人々は慎重になる。

 安直なバラエティーをダラダラと見ることはないし、ゴシップを見ることにお金を費やすことに空しさを感じるだろう。

 最近、テレビなどで素人を登場させ、安直な芸をさせて馬鹿にして、それが番組になってしまうことがあるが、無料だから通用してしまうだけのことで、もしも有料ならば、見る側も、もう少し真剣に見るに違いない。

 テレビがくだらなくなるのは、無料だからなのだ。どんな商品やサービスでもそうだが、お金を頂戴して提供するモノは、顧客に対してそれ相応の責任が生じるので、プロ意識が芽生える。いろいろな環境要因のことで言い訳をしても意味がないので、与えられた条件のなかで努力し、レベルアップしようとする。そうしないと生きていけないから、そうするしかない。

 そして、そうしないと生きていけないという必死の気持ちこそが逆境を乗り越える力となり、思ってもしなかったアイデアや問題の解決策を見出すことにつながり、その連続のなかで、プロとしての技に磨きがかかる。

 冒頭の日本テレビの会長の発言は、プロの言葉ではなく、修羅場を経験したことのない素人の言葉のように聞こえる。(社内の政争とか、立ち回りはあるのかもしれないが)。

 実力を判断してもらうための試用期間として”無料”の時期を設けるのはかまわないと思うが、その先ずっと無料でやっていくというのは、どこかで緊張感や必死さがなくなっていく。

 また、無料のモノを、身銭を切って必要な人にだけ伝えるという発想でやっていくなら話しは別だが、コンテンツよりも広告の露出を優先するために、無料のモノをできるだけ多くの人に知ってもらうこと(視聴率)を重視すると、仕事の発想がまるで変わってしまう。手に取った後の満足度よりも、人目に付く場所で人目に付く演出を第一に考えて、とにかく手に取ってもらえればそれでよしということになってしまうのだ。

 そうすると、奇をてらったもの、賑やかなもの、派手派手しいものなど、とにかく目立つことが優位になって、目立てば、偉いということになる。そういう文化を社会に蔓延させる。

 そして、いつの間にか、目立っていることが、「公共性」の第一条件のようになっている。それゆえ、今日の表現メディアは、タレントなど目立っている人を公共のものとして扱い、その人権を平気で無視できてしまう。

 それにしても、最近、テレビ関係者が、「公共性」という言葉を頻繁に使っているが、その定義が曖昧でよくわからない。

 楽天のビジネスモデルがよくわからないと言う前に、自らが考える公共性の意味を、きっちりとした言葉で語ってもらいたい。

 

「公共性」というのは、「社会的メリット」という意味だと思うが、多くの人の刹那的な欲求に応えることが、表現メディアにとって、「社会的メリット」に貢献することなのだろうか。

 「社会的メリット」を実現するためには、建設とか金融とか農業とか、関わっている仕事ごとに役割は異なってくる。そのなかで、「表現メディア」は、いったいどのような仕事で社会的メリットを生み出していくべきかを深く考えたうえで、「公共性」という言葉を使用すべきだろう。

 「表現メディア」の社会的メリットへの貢献は、社会を構成する人々の”気掛かり”に、言葉や映像で応えていくことなのではないかと私は思う。しかも、そのサービスを、お金を払ってでもを受けたいと思わせることが、プロの仕事だろう。

 今であれ、未来であれ、私たちが生きていく世の中の状態に対して、人々がどういう”気掛かり”を持っていて、それに対して、どのように応えていくべきかを真剣に考えて取り組んでいくことが、表現メディアのプロとしての「公共性」だと私は思うのだが、テレビ局は、表現というサービスを人々に買ってもらうプロではなく、広告スペースをスポンサーに買ってもらうプロなので、そのスタンスに徹している。ならば、もっともらしく「公共性」などという言葉を使ったり、神妙ぶったキャスターに「社会」を語らせるのではなく、「テレビとはスポンサー様のおかげで成り立っているのです」と言えばいいのだ。

 テレビ局にとって、「そうしないと生きていけない」という必死の気持ちは、お金をくれるスポンサーに対する誠意と責任(視聴率)として表されるもので、無料で番組を見る人に向けられるものではないことは明白なのだから。

 とはいえ、綺麗事でカムフラージュして自分を良く見せることが当たり前の今日の広告社会にどっぷり浸かっているわけだから、ビジネスモデルも、嘘っぽい良心的態度も、変わることはないだろう。見る側の意識が変わらない限り。