虚と実

 昨日、帰宅してからテレビのスイッチを付けると、日本テレビで、ホストクラブの番組があった。カクテルグラスをピラミッドのように積みあげ、その上から、一本60万円の高級ブランデーを10本、なみなみと注ぐ。そして、一本30万円もする高級シャンパンを両手に持って、ラッパ飲みする。15,000円くらいのシャンパンをオーダーするお客はお客ではないといった顔でまるで相手にしない。お客の一人、21歳の女性は、1週間毎日通い詰めて、毎日100万円近く浪費していた。そのお金は、投資とか貿易とかで稼いだなどと言うが、おそらく嘘だろう。ホストクラブに通っている間は、15万円ほどのマンスリーマンションで暮らしているのだから・・・。

 他にも、売れっ子キャバクラ嬢やスナックのママ、ファッションヘルス嬢などが、お目当てのホストのために、大金を浪費する。

 巨大なお金だけが、グルグルとまわり、数十万円もする高級シャンパンやブランデーも、その名前を聞いて「ああ、高級品なんだ」と納得させるだけで、その価格に見合った丁寧な扱いもなく消費される。高級ブランデーも、高級になるにはそれなりの理由があって、生産者の手塩にかけた愛情や、研究や、切磋琢磨を経て、それを受け取る側に極上の喜びを与えることが前提にあった筈だが、現代社会では「冠」だけが一人歩きして、その有り難みをわからぬ人たちにぞんざいな扱いを受ける。こういうのを見て、それらの作り手は、「お金さえ払ってもらえればそれでいい」という気持ちになるのだろうか。

 きっと、「言うに言われぬ悲しみ」で心がいっぱいになるのではないか。

 「お金さえ払えば」という発想は、お金を権力化することだ。

 人間が社会で生きていくためには「お金」を媒介にしなければならないのだが、「お金」が権力になってしまった瞬間、人間の方が「お金」に振り回される。

 「お金」だけが勢いよく動いていくのだけれど、人間が取り残されている。「お金」が裸の王様のように威張っているだけなのに、それに媚びる人たちは多い。王様が裸であっても、その権力の周りにいれば自らも安泰だという考えなのか。実際には、それが安泰かどうか心もとないのだけれど、それが無くなったら、それこそ何もなくて、もっと不安になる。裸の王様を讃える心理とは、そういうものだろう。

 けれどもそういう不安心理を抱く人が大勢集まれば、「裸」なのに「裸」でないという空気になってしまう。その空気のなかで、「裸」に見えてしまう自分がおかしいのではないかという気分になって、焦燥感とともに周りの人たちに追随する人も増える。

 15年前の「バブル経済」とは、まさにそうした虚像が一人歩きして巨大になってしまい、それがあたかも実像のように報じられて多くの人を巻き込んでいく現象だったのに、今また同じことが繰り返される。

 その原因はいろいろあるだろうが、根本的なポイントは、裸の王様を見て、勇気を持って「裸だ!!」と言えないところにあるのではないか、という気がする。

 大勢の人の意見に左右されず、モノゴトの虚と実を見分ける自分の眼力に自信を持てないかぎり、同じことが繰り返される。「お金」は、その影響力が多大で象徴になっているが、他にも同じようなことが現代社会を覆い尽くしている。

 たとえば、知識の問題(知識人の在り方)もそうだ。大勢の人が正しいと言うことが正しいような気がしてしまう。だから、大勢の人が支持する人が立派だということになる。ベストセラーは、大勢の人に支持されているのだから、それなりに価値あることが書かれているのだろうということになる。

 でも本当はそうとは言えないのではないか。大勢の人がすぐに支持するものは、「虚」の膨らませ方が上手なものなのだ。「実」は、隠れやすい性質があり、丁寧に対応することではじめて価値が引き出されるから、大勢の人の支持を受けるためには、時間がかかる。

 「実」は見る相手を峻別する。しかし、「虚」は記号性が強く、相手を選ばない。

 人々に尊敬される王様を「実」とするなら、王様の衣装は記号にすぎない。しかし、王様の衣装を着ていない状態で、王様としてのオーラを醸し出すことは難しいし、見る側も、それを見抜く眼力が必要になる。どちらも、それ相応の修養が必要になる。しかし、「王様の衣装」を着ている人が「王様」であるという了解事項=記号があり、その記号さえ知っていれば、眼力を鍛える必要はない。だから、了解事項だけが一人歩きをして、増幅して、あたかも「実」のような顔で歩く。

 そうして、王様が衣装を着るのではなく、王様の衣装を着ている人が王様であり、その王様が衣装を着ていないのはおかしい、だから、そんなことはあり得ないという了解事項によって、虚と実がねじれる。

 例えば、現在巷で大騒ぎをしているIT長者たちにしても、おそらく、大金持ちの彼らは、「もっとお金が欲しい」のではなく、「お金」という記号が、自らにとって「実」らしき手応えになってしまっているから、それを目的として生きていくしか他に道はなくなっているのだ。

 そしてその目的をかなえる手段として、化かし合い、騙し合い、相手を出し抜くこと、手の込んだ仕掛けなどがあり、それを上手に行って目的を実現できるかどうかが「頭の良さ」とみなされる。つまり、結果として「お金」が多いことが、「頭の良さ」を示すことになる。つまり「お金」は自分の優秀性のバロメーターであり、人間としての存在価値ということにつながっていく。

 そして「お金を動かす量」が「人間の価値」となる「虚」の了解事項によって、その人たちに、よりいっそうのお金が集中する。右を見ても左を見ても、お金に関する話題ばかりで、なんのための仕事で、誰のための人生か、わからなくなる。

 このように「虚」と「実」がねじれた問題は、IT長者にかぎらない。お金とか知識とか人生観そのものの問題となって、多くの人々の意識を支配している。

 「何が実で、何が虚なのか、誰にもわかりはしない、だから本人が納得していれば、それでいいじゃないか」いうロジックがあるが、そのロジックを声高く叫びながら、また、(消費者金融などに)そのロジックを上手に操作されながら、日々、めまぐるしく変遷していく<大勢の了解事項>に振り回されて、大勢の人が生きていくことになる。さらに、そうした経済構造のおこぼれを最大の収益源とするマスコミが、煽り続ける。

 昨日のホストクラブのテレビ番組でも、稼ぎ頭のホストが、「あっぱれの男」と讃美されていた。テレビ局が言う「公共性」というのは、<大勢の了解事項>を取っ替え引っ替え仕立て上げて、人々の生活のなかに「虚」を増幅させることにすぎず、その性急な消費サイクルこそが、彼らの命綱でもある。

 ならば、「虚」に相対する「実」とはいったい何なのか。それを考えることは、<正しく生きる>ことにつながっていく問題だと思う。

 <正しく生きる>などと言うと、「何が正しくて何がそうでないのか誰が決めるのだ」と反論を受けてしまうだろうし、今にかぎらず過去においても、蔓延する「虚」の窒息状態のなかで、安易に掲げられる「正義」に拠り所を見出そうとして、人間が暴走を繰り返してきたことを忘れてはならないだろう。その破壊を伴う「正しさ」もまた「虚」にすぎなかったのだけれど・・・・。

 すなわち、「正しい」という言葉もまた、「虚」を孕んでいる。それを承知のうえで、言葉になる以前の領域の、<言うに言われぬ正しさ>というものがあるのだという場所から、モノゴトを考えていくしかないのではないかと私は思う。

 しかし、その<正しさ>を志向する言うに言われぬ思いがいっぱい詰まった<表現>は、現代社会では、あまりにも存在感が弱い。その弱さは、力が無いというだけではなく、声が大きいか小さいかで計られてしまう今日的な構造の中で生じてしまう相対的な弱さでもある。だからといって、「現実を見ろ!」と大きな声で叫ぼうとすればするほど、大きな声にしやすいこと(感情的になりやすいことや、善悪を主張しやすいこと)ばかりを題材にすることになり、大切にすべき微妙な機微が殺ぎ落とされ、無きに等しいものになってしまう。

 そのように「お金」とか、「頭の良さ」とか、「生き方」に対するパラダイムが根本的に変わらなければどうしようもない状態ではあるけれど、それを変えていかなければならないんだなどと茫洋としたことを言っていても、精神論の一例として記号化されて消費されるのもまた、現代社会のアリ地獄のような構図だ。

 その構図のなかで、ホストクラブの夜を「あっぱれ」と紹介し、その番組の前後で、16歳の殺人少年を「心の闇」などと神妙な顔をして分析し、その番組と番組の間に、消費者金融のコマーシャルを連呼するメディアが、言論の権力として君臨する。そして、その権力を「公共性」と主張し、その厚顔無恥さで安直に仕立てる番組が、大勢の人々の退屈な生活の気晴らしとなる。この現代社会の構図のなかでは、小さな声でしか語れない「言うに言われぬ正しさ」は、あまりにも無力になる。

 そして、人々を「退屈」にさせる最大の原因は、本来なら無数の小さな断片を苦労してつなぎ合わせて作るべきジクソーパズルを、たった二つ三つの断片で、それらしく見せられてごまかされているからで、偽のジクソーパズルだからこそ、すぐに見飽きてしまうからなのだ。しかし、そのことに気づく暇もなく、また新たなる二、三片のジクソーパズルを見せられる。それが、今日のメディアの退屈再生産の構図でもあるのだ。

 それでも、「言うに言われぬ正しさ」は、この世に歴然とあって、それを照射しようと努力をしている人は少なからずいる。その正しさは、「こういうものである」と簡単に言葉で言えてしまえるものではないけれど、「こういうものである」と簡単に言い切ってしまうことの胡散臭さを人が察し始めた時に、自ずから姿を表してくるもののように思う。

 たとえば、愛情をこめて作ったものを、「お金を払えばそれでいいだろう」とばかりに乱暴な扱いを受ける時の、作り手の「悲しみ」。その「悲しみ」の及ぶ範囲に、「言うに言われぬ正しさ」は、閃いているのではないか。

 「こういうものである」という記号をたくさん覚えることよりも、「言うに言われぬ思い」や「簡単に言い切れないこと」を察することの方が難しい。だから、それをできる人の方が脳力が高い筈で、その価値が当たり前のように浸透すると、記号に翻弄される人間社会の修復は可能ではないかとさえ思う。

 今日の社会は、記号の氾濫によって「虚」と「実」の”ねじれ構造”になっている。そこから抜け出るためには、何の保証もないけれど、「言うに言われぬ正しさ」があるだろうと”直観”する方向に足を踏み出し、裸の王様のことを「裸だ!」と言うように、勇気を持って、一歩一歩歩いていくしか他になく、その不確かでおぼつかない「歩み」そのものが、自分にとって、どんなことより確かな「実」であるし、その「歩み」があるからこそ、「手塩にかける愛情」や「言うに言われぬ悲しみ」もわかるのであって、その「わかり、わかり合える」というおぼろげな感覚の中にこそ、「言うに言われぬ正しさ」が、微妙に揺らぎながら、宿っているのだと思う。