バブルの構造

 首都圏のマンションの構造の強さを計算する書類の偽造問題が世間を賑わしている。マンション販売会社の下に建設会社がいて、その建設会社が建築設計事務所建築士に物件の構造計算をさせる。その計算書を、市役所などに代わって建築確認の審査をする民間の建築関連検査会社がチェックする。表向きは、建築士と検査会社の二重チェックがあるが、今回の事件のように建築士が偽造して、それをチェックする側が、根ほり葉ほりチェックするスタンスがなければ、そのチェックは機能しない。

 販売会社は、営業や広告に力を入れ、モデルルームや派手な宣伝コストを負担したうえで価格競争に走るために、建設会社に低コストで建設することを要求する。必然的に建設会社は、安全性よりもコストを優先して設計し、その不正をうやむやにしてくれる建築士に仕事を発注する。真面目に仕事をする建築士は、煙たがれて仕事がこない。今回の騒動を引き起こした姉歯建築士は、明らかに「俺だけじゃないよ」という顔をしていた。

 「真面目に仕事をすると、仕事がこない」。これは建築士に限らず、現在の日本社会の至る所に生じている現象で、人間の美意識やモラルを負のスパイラルによって底なしに低下させていく最大の病根かもしれないとさえ思う。

 そして、その負のスパイラルの中に入っていくと、美意識やモラルといった言葉を口にしたり耳にすることも鼻白むものになって、避けるようになる。 

 これはテレビ番組などに顕著で、真剣に芸を競うことより、不真面目でバカっぽいノリの方が人気者になってしまう。こうした現象は、鶏が先か卵が先かという問題になってしまうが、テレビや雑誌などは、その方が視聴率がとれる=人々がそれを望んでいるという発想でそうしているわけで、テレビや雑誌がそのスタンスを徹底するものだから、ますます、人々の間にそうした空気が広がっていく。

 「真面目に仕事をすると、仕事をこない」という大人社会の現象は、「真面目な話しをすると煙たがれて、友達ができない」と子供社会から大学生にまで浸透している。

 真面目イコール暗い性格というように結びつけられて、わざと不真面目でバカっぽく演出しなければならないということもあるのだ。

 子供社会にそうした価値観を浸透し、その子供達がいずれ大人になっていくわけだから、社会はますますそうなっていく。

 そしてこの傾向は、たんなる時代のムードとかではなく、現在の日本経済の構造が密接に関わっているのではないかと私は思う。

 その構造を一言で言うと、「無駄の経済」だ。「バブル」といった方がいいと思うのだが、固有名詞になっているあの極端な「バブル経済」でなくても、今の日本経済は、本質的に実態のないバブル的なものの上に成り立っている。

 一つは、流通経路の多さと複雑さ。実態価格の上に、中間流通の様々な価格が上乗せされる。だから日本の住宅は、土地だけでなく建物も割高だ。そして、割高だけど利益率が低いから、損益分岐点を高めに設定する。そのためには大量販売しなければならないから、広告の露出も多くなる。それゆえ、そのコストも踏まえていっそう損益分岐点が高くなる。そうすると、営業にかかるプレッシャーも強くなる。住宅にかぎらず、そういった構造は各方面であるのだが、私が「バブル」といったのは、そのように広告とか流通とか本来の実態から離れている仕事で「飯を食わなければならない人」が多く、その種の仕事がなくなってしまうと、社会全体が混乱になってしまう。だから、バブルであっても、そこに実態があるような暗黙の了解が、日本社会には必要になっているのだ。

 そして、そうした社会構造を機能させていくためには、消費サイクルを早め、買い換え需要を増やし、常にみんなが忙しそうに走り続けている状態でなければならない。製造、流通、広告などが複雑に入り組んでいるので、どこかが立ち止まってしまうと、全てが止まってしまう。そして人々を走り続けさせるための「思想」が、“無駄の許容”と、“あまり真面目に考えない”ことではないかと私は思う。

 この構造的バブルがどんどん回転していって大きく膨れあがっていくと、固有名詞になっているあの極端な「バブル経済」になる。いくら15年前のことで痛い目にあったとしても、構造が変わっていないかぎり、同じ事が繰り返される。

 そうした日本社会と日本経済の潜在的構造にぴったりとはまって支持されているのが、海外ブランド品ではないか。ブランド品ほど実態価値の不明なものはない。もちろん、ある程度の技術とか品質は備えているが、その何倍もの価値が、デザインファッション、ステイタス等々、記号化された情報によって上乗せされ、体質的に同類のメディアとかそこに寄生するタレントと組んで、互いに相乗効果を高める。なにせ最近の新刊雑誌の広告は、巻頭から表4まで、ほとんど全てが海外ブランド品と言っていいくらいだ。それらのコストは、当然ながら価格に上乗せされているが、そのコストも、広告露出による“有名料”で、まさに実態のない価値なのだが、その有名料を有り難がって人々が支払うように、有名タレントの起用とか各種パーティなど様々な仕掛けが行われている。そして、そういう仕掛けに長けた人が仕事ができるということになり、脚光を浴びる。その繰り返しが連綿と続く。

 実態の無さというのは、実感の無さでもある。

 テレビに写し出された姉歯建築士の顔は、悪意に満ちた顔ではなく、自分がやっていることに対する「実感のない顔」だった。目の前に流れてきたことを慣習的に機械的にこなす。いつものように。そして、以前から行われていたように。それのいったいどこに問題があるというのだ、俺だけじゃないのに、という感じで。 

 いかにも悪人という人が、悪いことに手を染めるのではなく、自分がやっていることに対する無自覚さが、結果的に、悪いことを引き起こしていく。でも、当事者意識は弱い。自転車のタイヤが地面についていないのに、自転車を一生懸命こいでいるという自分の側からの正当性だけしか見ようとしない。タイヤを地面につけなかったのは、俺の責任じゃないと。

 こういうことは、社会の至る所にある。

 そして、こういう社会をつくったのは俺じゃない。俺は一生懸命生きているよ!! とみんなで叫びながら、自転車と地面の接点を誰も見ようとしない時、もしくは、それを指摘する者が煙たがれる雰囲気になる時、歴史の悪夢が再び繰り返される。

 バブル経済に限らず、戦争だって、同じ構造の延長上にあると私は思っている。