ほっとけない!って、心からそう思い続けるか?

 昨日の夜、会社から帰ってテレビをつけるとニュース23で、「世界の貧困をほっとけない」キャンペーンに関する特集があった。私は、この番組も、ニュースステーションも、朝日新聞も嫌いなのだが、日本のマスコミの傾向や体質がよくわかるので、時々見ている。

 ほっとけないキャンペーンは、以前このブログでも書いたようにホワイトバンドの購入資金が援助金になっていない胡散臭いやつだが、あの時から、白だけでなく、緑とか青とかいろいろなバンドが出ていて、それぞれの色が地球環境や癌患者に対する意識を表明するということで、それを腕に巻くのがファッションになっているらしい。

 そして番組のなかでは、世界中に飢えている人や労働させられている子供がこんなにたくさんいる、そのことを知らなければならないというメッセージとともに、労働させられる子供の辛さを実感するために畑仕事を日本の子供に経験させて感想を聞くという趣旨のものがあった。

 そのなかで、少し畑で働いた子供達は、「僕たちは2時間でもへとへとなのに、8時間も働かされる子共は可哀想だと思いました。」とインタビューに答える。それを聞いてキャスターは、「こういうことは必要ですね、子供達の想像力を養うことにもなるから・・・」と解説する。

 この種の解説は、「この試みが効果を生むとはかぎらないが、何もやらないよりいいだろう」という大勢の無難な意見に媚びるもので、こうした良識人ぶった言い方には、なかなか反論できない。そして議論も進まない。

 でも本当に、ああした試みは、何もやらないよりいいと言えるのだろうか。働いている子供は、本当に可哀想なのだろうか。

 他人の営みについて、可哀想だとかそうでないとか、いったい誰に決める権利があるのだろう。そこにどんな基準を当てはめようとしているのだろう。

 そうした無難な意見の多くは、自分たちが実感していないのにも関わらず、ステレオタイプ的に信じ込まされている幸福基準に基づいて語っているいるにすぎないと感じることが多々ある。

 自分たちが実感としてそうした方が幸福だと思い、他者にもそうなって欲しいと本気で願うならば、まだましなのだ。しかし、実際には、自分たちですら幸福の在処が見えていないのではないか。そう思えていないのに、アフリカの人たちを見て、自分たちの方がましだと思っているにすぎないのではないのか。そしてその比較は、自分たちの基準に添ったものにすぎないのに、他者のなかにあるかもしれない基準を、想像すらしようとしていないのではないか。畑仕事を少しだけ手伝って大変だと思うことが想像力を養うなんてとんでもない話しで、畑仕事を続けて、作物を収穫して、その喜びを獲得したり、収穫の時に天災の被害を受けて悔しい思いをしたり、そうした悲喜こもごもの経験を通した時にはじめて、仕事の奥行きを知り、その仕事に真剣に取り組んでいる他者の気持ちに対する想像力が養われるのではないか。

 2、3時間だけ仕事を手伝って、しんどいということだけを経験し、それが想像力と結びつくと言うキャスターの、なんという浅はかさだろう。これに比べれば、以前に小学校で行われていた生命の教育で、自分たちが食べている肉がどのようにできているかを知るために豚を自分たちで世話して、最後は屠殺場に送り出した子供たちの胸を引き裂かれるような経験の方が遙かに素晴らしく、想像力につながっていくだろうと思う。

 もちろん、飢えている人を幸福だというつもりはない。しかし、日本では毎日、80人が自殺している。そして自殺したいと思っている人は、その何倍もいるだろう。しかも、自殺の場合は、本人だけでなく、残された家族や友人を甚大に傷つける。

 自分たちの方がアフリカの人たちよりましだという感覚で語られる豊かさの基準は、お金であり、物質の量や種類の豊富さであり、便利で楽ができるということにすぎない。その価値観から見ると、自給自足の生活は大変貧しく不幸だということになる。しかし、自給自足のサイクルがきちんとできている共同体は、意外と幸福指数が高いのではないか。彼等は、必要なだけの食べ物を獲得し、食べ物の循環のなかに自分を位置づけることで世界と調和した暮らしを営んでいる。だから、必要以上の欲に苛まれたり、駆り立てられることもない。

 貧しさというのは、必要な物はそこにあるのに、それを手に入れるための手続きが複雑になって、その手続きをうまく(狡く)使いこなす人に物資が集中し、そうでない人にはまったく手に入らないというようなアンバランスが生じた時に、引き起こされるのではないか。自分の生活が、そうした仕組みに組み込まれてしまい、ちょっとしたきっかけでアクシデントの煽りを受けやすく、そこから抜け出しにくい状態を指すのではないか。

 たとえば、現在、日本の漁業で問題になっている巨大クラゲの大発生にしても、もしも漁師の人が、自分が食べていくのに必要な分だけ魚を獲ればいい経済システムの中に生きていれば、ここまで深刻な問題にならないのではないかと思う。獲った魚をお金に交換し、そのお金で生きるために必要なことを行わなければならない。そのお金は、魚がクラゲによって少し傷ついているだけで価値が100分の1になってしまうという極端に気まぐれなものだから、何かアクシデントがあった時に、その価値の暴落とともに豊かさも吹き飛ばされてしまう。

 私たちの生活を成り立たせている経済の仕組みは、それほど脆弱なものなのに、一時の盛り上がりのようなヒロイズムと短絡的な思考と性急な判断で、資本主義経済に馴染んだお金や物質を別の種類の経済圏に与えることは、その場所に根付いていた大切な何かを損なうことになるかもしれない。

 さらに、貧しさの原因は教育にあるという大義名分で、自分たちにとって馴染みのある教育を押しつける。そうした乱暴で不遜な介入によって、その対象国が、その国の風土のなかで長い歳月をかけて作り上げてきた智恵の醸成システムを蝕んでいく。

 着の身着のままで文字が書けず少ないおかずを食べる生活が貧しくて悲惨だという思考のバイアスを、私たちはまず変えなければならないのではないか。

 そういう言い方をすると、「ならばオマエは、アフリカの子供達のような生活の方がいいとでも言うのか。それがいいなら、明日からすぐにでもそうすればいいではないか」などと極端なことを言う人がいるかもしれない。

 しかし、そういうものではないだろう。なぜなら、私たちは、生まれてからこの日まで、この国の様々な価値観のバイアスを擦り込まれている。これは意識しても完全に脱ぎ去ることが出来るものではなく、モノゴトを判断する時に、どうしてもそのバイアスの影響を受けてしまう。だから、その状態のまま、異なる風土の価値基軸の世界に放り込まれて幸せな生活をすぐに始めることは難しい。人間の幸福の感じ方は、全人類に普遍のものがあるのではなく、その人が生きてきた環境にかなり左右される筈なのだ。

 物が少ない地域で生まれ育った人たちは、その少ない物を深く味わえる体質になっているから、少ない物の中でも、幸福の総量は、そんなに少なくないかもしれない。

 日本とアフリカ、どちらがいいかではなく、人間の価値観はその土地で育まれるものだから、その土地を知らない者が、自分の価値観でその土地の幸福度をはかったり、自分の価値観を押しつけたり、自分の価値観のなかでモノゴトが解決できるなどと思ってはいけないのではないかと私は思う。

 まずは、自分達が陥っている価値観のバイアスのなかで、この道の延長戦上に本当に幸福が存在するのかどうかをきっちりと検証し、もしそうでないのなら、少しずつ修正していく努力をしなければならないのではないか。アフリカよりましだなんて、思うことじたいがナンセンスなのだ。

 最近の日本の居酒屋とか旅館などで顕著なのだが、食事の品数を多くして速くサービスしなければ客が不満だということで、冷凍食品を使ったり、作り置いたものをレンジで温めて出したりするのだが、一品一品がまったく美味しくなくて、口に運んでも噛んでも、まるで食べている気がしない。でも、例えばトマト一つでも、焼き魚一つでも、心身にじんわりと染みいるように美味しい料理というものがあって、そういうものは、それだけでも「食ったあ!」という気持になって幸福な余韻が後々まで残る。 

 イモばっかり食べている人を見て可哀想だと思うのは、私たちが食べ慣れてしまっている不味いイモのイメージが強いからで、あんなのばっかり毎日食べていたら、さぞ毎日が無味乾燥としてつまらないだろうと、かってに解釈しているだけなのだ。しかし、実際はそうではなく、毎日食べても飽きないイモや人参やキュウリというものがある。そういうものは、味の奥行きがある。毎日の生活の幸福感というのも、選択肢の豊富さとか量の多さに関係なく、味わいの奥行きによって左右される。モノゴトの味わい方を学ばないと、量や種類で鈍磨した舌をごまかせない状況が訪れた時に、突然、毎日が苦痛に満ちたものになる。

 私たちの国の価値観は、モノゴトの味わい方を大切にして、それを子供に伝えているだろうか。味わい方がわからなければ、どんなに豊富な物に囲まれていても、常に満たされない思いになる。いくら学校で学べるとしても、学問の味わい方がわからなければ、学校に行くことを幸福だと思える筈がない。そういう大事なところを覆い隠して、「あなたたちは学校に行けるだけ幸福なのよ、世界には学校に行けない子供はたくさんいるのだから」という説教は、欺瞞にすぎないのではないか。

 他の人の幸不幸を論じるよりも、まず自らの幸福の味わい方というものを検証し直すべきで、もしそれがきちんとできさえすれば、アフリカの人たちに対する眼差しも、態度も行動も変わってくるのではないかと私は思う。 

 アメリカのイラクに対する政策だって、「ほっとけない!!」の主張と根本的なところで変わらないと私は思う。自分たちの生活の中に深刻な矛盾を抱えているのに、相手よりましだと自分に言い聞かせたり、自分たちの価値観の範疇で相手を見る姿勢を改めないという意味において。

 そして、この種の問題は、なかなかデリケートで言葉で語り尽くすことは難しい。

 12月1日に発売される「風の旅人」の第17号のテーマ、LIVING ZERO〜永遠の現在〜は、この種の問題に対する私なりの答え方の一つだと思っている。