職業人か、達人か

 写真や文章を職業とするというのは、写真や文章で糧を得ていること。その意味では、教師も弁護士もエンジニアも営業マンも何も変わらない。自分の仕事は、職業人として責任をもってやればいい。

 しかし、写真とか文章(特に学者とか、一部のライターも)とかで食っている人のなかには、自分はそういう類ではなく、特別なのだと勘違いしている人もいる。

 例えば、営業関係の職業人であれば、自分の商品を買ってもらう為に、横柄な態度はとらない。横柄な態度をとれば、商品を買ってもらえないことがわかっていて、買ってもらってこその職業人だと自覚しているからだ。

 しかし、写真の売り込みなどで、この原則がまるでわかっていない人は多い。「見ろよ!!」すなわち「買えよ!!」みたいな態度で。仮に見ることになって、こちらが少し納得いかない顔をすると、「納得しないのは、おかしいんじゃないか。見る目がないんじゃないか」みたいな顔をあからさまにする人もいる。

 つまり、このタイプの職業人たちは、へんにプライドが高いようなのだ。

 なかには、「私はプロだ!」と主張する人もいる。

 これって、いったいどういうことなのか。

 私が思うに、現在、「プロ」という言葉には二つの意味が混在してしまっている。

 一つは、謙虚な職業意識。もう一つは、「その道を極めているぞ、オレは!」みたいな自負心。

 そのあたりをはっきりさせるために、定義に合わせて、言葉を使い分けた方がいいかもしれない。

 仕事をきっちりやって、そのおかげで糧を得ていますよ、という状態は、「職業人」。だから、当然、サービスを買ってもらう時と同じような、謙虚な態度は必要だろう。写真であれ、料理であれ、日用雑貨であれ、同じこと。

 そして、「その道を極めている」という状態の場合は、「達人」という言葉でも使えばいいのではないか。「オレは、その道の達人だぞ!」と。

 その方がわかりやすい。「私は、プロだ」ではなく、「私は、その道の達人だぞ!」と言ってもらえれば、たとえ威張られても、「どれどれ見せてもらいましょうか」という気持ちになれるし、「ふーん、これが達人の技なんですか。私には達人の技がわからないのかもしれませんね」と感想も言いやすい。

 「私はこの作物をつくることを職業にしています。なかなかいい作物が収穫できたと思います。どうか買ってもらえませんか。」と売りにきて、その態度に好感をもって作物を買い、食べてみたところ、「これは達人の作ったトマトだ!」と感動することはあるかもしれない。

 しかし、「美味いに決まっているんだから、食べて見ろよ」という感じの横柄な態度で差し出されたものを、誰がお金を出して買うものか。「買わなくてもいいです、見るだけでいいですから」という営業トークもあるが、「買うか買わないかは、見てから決めればいいだろ」みたいな横柄さの滲む態度をとる人と、仕事を一緒にしたくないと思う。

 作物とか日常商品の場合は、そんなことは当たり前のことでも、写真とか文章は、違うものだと勘違いしている人が多いみたいだ。

 つまらないことだけど、彼らの一部は、「表現者」という特別なステイタスがあると錯覚しているのだろう。

 でもはっきり言って、その時代に本当に必要な「本物の表現者」の数なんか、たかが知れている。

 今そうだと思っている人の、1万分の1もいないと思う。

 表現まがいのものは、あっても無くても同じ。その時代だけでなく将来的にも、何の影響も生じない。(悪い影響はあるかも)

 その時代に本当に必要な「本物の表現」は、その時代か、その後の時代に、質的に重要な影響を与えるものだけなのに、何かをつくりさえすれば「表現者」であるという感覚が、この世を歪めている。

 だからといって、「本物の表現者でない人は、何も作るな」と言いたいのではない。「表現者」としてではなく、「職業人」として謙虚にものを作ればいいことで、自分で作ったものを人に買っていただくために、謙虚に活動をすればいいと思う。

 でも現在の表現世界の現実は、「本物の表現者」が謙虚に活動をしていて、「職業人」か、それ以下の人が、妙に威張っている、なんとも不思議な”ねじれ現象”が起こっているのだ。

 最近、私は、上に述べたような売り込みに対して、辛辣な態度をとっているので、おそらく、悪い評判が少しずつ広がっていると思う。

 私が言っていることは、一般社会では当たり前のことだと思う。しかし、”ねじれ”に気づかない人は、当たり前のことを当たり前のこととして捉えることがないので、不満や憎みだけを膨らませている。

 「風の旅人」をきちんと見ていただければ、上に述べた”ねじれ”に自覚的な表現者で成り立っている媒体だとわかる筈であって、それがわからない人は、「風の旅人」の趣旨を感じてもらえないわけで、もともと縁が無かったということなのだろう。

 

 こんなことを書くと、「おまえも謙虚にやれよ!」と言われそうだが、私は人にモノゴトを頼む時は、慎んでお願いしているつもりで、「書けよ!」という態度はとらないし、「あなたに書いてもらう為のアプローチの方法を、FAXで流してもらえませんか」などとは決して言わない。