熟慮断行

 旅行業とか出版業とか実態の無いモノを相手にする仕事をしていると、時々、直面する問題がある。

 たとえばトラブルを解決しなければならない時など、黒か白か、決められた答えが無いことの方が多い。

 旅行の場合、旅行業法とか約款とか、いちおうルールがある。しかし、そのルールに則してトラブルの種類を打ち込めば自動的に答えが出てくるものではない。トラブルや苦情の多くは、法律の白黒で割り切れない人間の心から生じていることが多いからだ。

 そうした場合、若い社員などで、「これがダメだったら、アレで」みたいに、自分の中にある黒か白の解を、そのまま相手に押しつけることは多い。当人は押しつけだという実感はない。そもそも自分の中に白か黒の解しかないものだから、相手に白を否定されると、黒しか残っていない、その黒もダメというのなら、いったいどうすればいいというのだ、という感じで、落ち込んだり、怒ってしまったり、思考停止状態になってしまうのだ。

 そういう人を見ると、これまでの学校教育のなかで、灰色の領域との付き合い方がまったく訓練されていないのだろうなあと思わせられる。

 そういう人に典型的なのは、白か黒と自分がイメージできる解答以外に、自分の想像できない解があるのかもしれないという”想像力”が欠如していることだ。

 未知なる解は、そういうものがあるだろうと直観する人にとっては無ではないのだけど、その感覚すらない人にとっては無に等しい。

 自分にはわからない灰色領域に対して、謙虚に慎重に向き合う気持ちが備わっていれば、「少々、お時間をいただけますでしょうか、自分なりによく考えてみます。お返事の猶予はいつ頃まででしょうか。その時までに必ずお返事致します」という言い方ができる筈だ。

 そのように約束をするということは、それを必ず解決しなければならないと自分に重荷を背負わせたまま、宙ぶらりんの状態でいなくてはならないことで、その場で白か黒か決めてしまうことよりも辛い。しかし、この宙ぶらりんの状態にいて、それを何とか理に適った方法で抜け出そうとあがくからこそ、智慧が身に付く。思考の手を様々に伸ばして、いろいろなことを探り、それらを組み合わせて最善の方法を導こうと考え尽くす。その誠意ある姿勢のプロセスだけで、苦情など心の問題の解決につながることは多い。

 しかし、灰色部分との付き合いというのは、とても微妙な問題を孕んでいる。すなわち、灰色の部分で宙ぶらりんになってあがいているように見せながら、実はもったいをつけていたり、時間を先延ばしをしているだけだったりで、自分の中では、自分に都合のよい解をとっくに決めている人も多いからだ。

 たとえば政治家や役人などにこういう人が多いから、白か黒の小泉首相がとても新鮮に見えてしまうということがある。

 もったいをつけた灰色も、白か黒かの短絡的思考も、自分に見えないところに大事なことがあるかもしれないと心に引っかかりを持てる”想像力”が欠如しているという意味で同じなのだが、このジレンマからの脱出は、とても難しい問題だ。

 昨日の日記で、近代以降の一般の風景画家と印象派の画家の違いを書いたけれど、同じパラダイムが、ここにもあるように思う。

 自然が大事か、人工が大事か。

 自然が大事と言って近代文明を否定する人も、実のところ、物質的な側面だけでなく、思考特性も近代文明の中にどっぷりとつかっている。

 文明病といわれる病も科学・技術的に解決されようとするし、文明の弊害としての心の問題も科学的に分析され、科学的な言葉で記述される。また、地球上の南北問題についても、文明圏と非文明圏という二極構造の意識化のなかで、優れた一方が遅れた一方を助けるという思考のもと、文明圏と称するエリアの機器や物資や食物や教育や価値観を提供するという発想で、解決しようとする。

 「可愛そう」という言い方や伝え方じたいも、相手方の人間としての誇りとか民族文化への配慮など、デリケートな灰色部分をそぎ落としているし、「アフリカは・・」などと言う一蓮托生の言葉も、アフリカのなかでも地域ごとに微妙に異なるという細部への配慮を殺ぎ落とし、それ以上のことを想像させようとしない。

 「考えるより行動を」という言葉は、ある意味では正論なのだけど、そのことが、考えずに行動することを美徳化するようになってしまってはいけないだろう。

 考えに考え抜いて、瞬時に行動する。こうしたことができるのは、ごく一部の達人だけなのかもしれないが、今日の社会において、この灰色部分と上手に付き合っている人は、インテリよりも、むしろ優れた企業のトップに多いかもしれない。

 優れた企業のトップは、変化と灰色のなかで試行錯誤を繰り返しながら前に進まなければならず、常にその結果と責任を厳しく問われる。

 今、日本で一番尊敬される企業のリーダーは、キャノンの御手洗社長らしいが、何かの雑誌に、彼の座右の銘が「熟慮断行」であると書かれていた。

 外科医は患者を徹底的に見るが、いったんメスを持ったら素早く切らなければいけない。

昨日の夜、テレビの『情熱大陸』で、心臓外科医の南和友さんを特集していたが、熟慮断行というのは、ああいう人の仕事ぶりを指すのだろう。

 それで、御手洗社長は、その「熟慮断行」を巨大企業を動かす際にも大事にしている。

 御手洗社長は、「経営者に一番必要なことは『わが社はこうありたい』というビジョンの設定だとする。経営環境の変化は予測しきれないが、どんな会社にしたいかということは、自分で描くことができる。でもそのビジョンは個人的な好き嫌いですまず全体に配慮したものでなければならないから、そのビジョンの構築のためにも、様々な角度にアンテナを張る。そうしてできあがった自分のなかの『軸』を大切に行動し、世界の情勢や動向とすりあわせ、方向が間違っていないか絶えず点検しながら、前向きに走る。

 環境変化を言い訳にする人は、いつも、自分以外のものに振り回されてしまう。そうではなく、『こうありたい』というビジョンを自分自身の頭で一生懸命練ること。それがある人は、モノゴトを実現していこうとする意欲も強くあってそれを維持できるし、人の意見にも耳を傾け、灰色の機微も読める。常に、自分の実力とか考えの方向性などを正確につかみとろうとし、得意・不得意を見極め、足りないモノを補っていくダイナミズムが備わっている。

 こうしたことは、スーパーマンに限らず、人間がもともと持っていた性質であるような気がするし、昆虫などが自らを変化させながら数億年も生き残ってきた力と同じ性質のもので、もともと、生命(ONE LIFE)に備わっているベクトルのような気がする。(これは、風の旅人、Vol.19<4/1発行>のテーマ)。

 そして、人間のなかに流れる、そうした生命(ONE LIFE)のベクトルは、『彼を知り己を知らば百戦あらうからず』という孫子の言葉に簡潔に集約されている。”彼”のなかに、環境世界全般が含まれるだろうが。

 現在の教育制度やインテリの学問で一番欠けていることは、この「己を知る」ための経験と学習だろう。

 さらに御手洗社長は、ビジョンに向かって人を動かすことについて、「大勢の人を動かしていくには号令だけではなく、きちんとした考えと仕組みをみんなに理解してもらうことだ」と言う。

 誰もが理解できることを誰もが理解できる言葉で明確にすれば、困難な状況でも自然と変わっていけると信じ、実際にそれを実現している。

 一番大事なことは、曇り無く、そう信じていることだ。すなわち、他の人間のことを、(少なくともキャノンの社員を)、それが可能な人間だと信じている。なぜそれを信じられるのかと言えば、御手洗社長の性質もあるだろうが、(キャノンという)人間環境に育てられて出来上がった己のことをよく知っているからなのだろう。それが良い環境か悪い環境かに関係なく、自分の置かれた環境のなかで、人間はいかようにも賢くなれる。

 しっかりとした方法さえ身につければという条件付きだが、その方法を探していくことこそが、人間の生であると御手洗社長は自覚しているのだろう。