言うに言われぬ清々しさ

 昨晩、前田英樹さん、酒井健さんと、神楽坂の裏通りの石畳の狭い路地の行き止まりにある店で忘年会。前田さんは、「店の入り口がどこにあるかよくわからない。でも、それがいい」と一言。

 熱燗を飲みながら話した内容は、かいつまんで言えば、「物にゆく道」について。

 前田さんは、六本木ヒルズで開催中の杉本博司展を、(彼の作品は嫌いだけど)世間があまり騒いでいるので見に行った。そして、思ったとおり、あまりにもつまらなくて、途中で見る気がしなくなったと言っていた。

 私もまったく同感で、杉本博司の作品だけは許せないと思ってしまう。アメリカでは評判で、聞いたところによると2千万円(本当かな?)で取引され、企業とか美術館が買っているのだとか。私の所にも、ニューヨークのサザビーズで働いている人の友人から、杉本博司の写真を持っている人を知らないかと問い合わせがあった。

 彼の写真は、剥製とか、蝋人形などを撮って、生きているように見せる。死んでいるものが生きているように見える、だから生と死の境界はあれこれあれこれ・・という講釈がつく。

 でも実際のところ、彼は、イージーに撮れるものしか撮っていない。海にしても表面的なものだし、「あの海の写真を撮るために世界中の海を見た」なんて言い方は、もったいをつけすぎている。生物の剥製にしても、星野道夫さん、岩合光昭さん、今森光彦さん、中村征夫さんなどのように、生きて動きまわる実物の奇跡の瞬間を撮る力が無いだけだろうと推察できる。(生きているものとの距離の取り方や駆け引きや読みも含めた総合力)

 死んで固定したモノをライティングなどを工夫することで生きているように見せる。それは生と死の境界とか大袈裟のことではなく、単なる目の錯覚を利用しているに過ぎない。

 実際は死んでいるのに、生きて見せるような演出は彼の作品に限らず、たくさんある。紛い物を本物のように見せる品々、偽ブランドにしても、同じことだ。

 生きているように見えることと、実際に生きていることは違う。中村征夫さんなど本物の表現者は、その違いを明らかにするために活動をしている。

 杉本氏の作品は、生と死の境界がテーマなのではなく、本物と偽物の境界がテーマなのだ。どこまで偽物を本物らしく見せることができるかという技巧上の追求が彼の写真なのだ。その技巧上の工夫の延長線上に、写真の巨大化があり、お金をかけた演出がある。

 偽物を本物らしく見せる技巧の集大成として、ニセモノを、本物の芸術であるかのように仕立て上げる。その大仕掛けの仕組みに、内容の伴わないことを内容があるかのような口振りで評論する人(大仰な言葉で人を恫喝したり、持ち上げたりするのは得意)が便乗し、さらに、その言説をコピーしてゆくメディアによって、偽りの構図が増殖していく。

 杉本氏の写真は、前田英樹さんの言葉で言うと、典型的なインテリの仕事となる。

 思想家でありながら、柳生石舟斎をも源流にもつ新陰流の剣術家でもある前田さんが「インテリ」という言葉を使う時は、「目が曇り、物にゆく道のわからない輩」という意味がある。

 また、おそらく日本人でいちばんバタイユの思想に肉薄している酒井健さんの言葉で言うと、「首から上だけで作る」ということになる。腹が据わっていないし、ハートも無いということだ。

 私には、「自分が呼応できる写真」と「どうでもいい写真」と「許せない写真」がある。

 「どうでもいい写真」というのは、私が呼応できなくても、その人なりに本気でそう感じて表現しているのだろうと思える類のもので、「許せない写真」と思うのは、その表現者自身が嘘をついているのではないかと感じる場合だ。「許せない写真」を撮る人は、自分の作品について、自分が意味づけしているように本気で思っていない。自分が本気でそう思っていないのに、もったいをつけて、それらしく伝えているのだ。

 杉本氏の作品を「写真の終焉」と大仰な論説で評した浅田彰氏にしても、本気でそんなことを感じていないくせに、そう解説しているようなそぶりがあって、「許せないなあ」と私は思う。

 もちろん、そんなことは本人に聞いてみなければわからないという人もいるだろう。

 こうした感覚は、他の全ての人と共有できるものではないが、共有できる人とは共有できるのだ。

 杉本氏の写真について私なりに感じることは、表層的であること。モノゴトの背後の「何ものか」へ至ろうとする意識が弱いこと。大仰な演出で目を眩ましているが、明らかに端数を切り捨てていること。すなわち、機微が読めていないし、機微の大切さがわかっていない。モノゴトを見ている「私」の豊かさが、表現のなかにまったく感じられない。観念の中で遊んでおり、身体で世界を掌握できていない。掌握するという感覚が身体的にわかっていない。ということになる。

 そして、この私の感じ方は、前田さんにはよくわかるようだ。

 そういう言い方をすると、「人それぞれ、気の合う人と合わない人がいるから、それぞれの領分と流儀でやればいいだろう」と言い返されてしまうが、たとえそうするしかなくても、そのように見解がわかれるポイントを考えておきたいと思う。

 一つは、「身体」と「観念」の分離を意識できているかどうかだと思う。

 そしてもう一つは、「生き様」の問題ではないかと思う。

 前田さんは、最近見た写真で一番感動したのは、100年ほど前のもので、会津藩の跡継ぎの15歳の少年が、自らの不徳(今日的には些細なこと)を恥じて割腹自殺する前の、ニコリと晴れ渡った、すがすがしい顔だったと言う。

 割腹自殺について、あれこれ理屈を並べ立てて論じることは容易い。自己顕示欲の勝ったパフォーマンスとしての自殺もあるだろうし、苦痛に耐えきれずにというものもあるだろう。

 しかし、この15歳の少年を通じて、前田さんが言わんとしたことはそういうことではない。

 少年は、自らの不徳の後、剣の猛練習をして、試合に勝ち、その後、何の濁りもなく、割腹自殺を遂げた。

 時計で計測すると短い時間だが、この少年の何の濁りもない清々しい心の瞬間が写真に撮られ、永遠の生命を帯びた。

 その一枚の写真が伝えてくるのは、自殺の周辺をめぐる生命の倫理に関する議論ではない。

 敢えて言葉にするなら、言うに言われぬ清々しさ。

 目先の利益や保身だけでなく、理屈や分別にも濁らない清々しさをもった人間は、時代を超えて美しい。

 今日の子育てで一番疎かにされていることは、人間としての清々しさを育むこと。それはすなわち、人間としての高貴な生き様を放棄することではないか。

 そして、本物の芸術作品や批評からは、自らの内面に真摯に向き合う、清々しく高貴な精神の力が伝わってくるものなのだ。