写真の終焉!??

 せっかくだから、もう少し杉本博司の写真にこだわってみる。

 私が「風の旅人」を立ち上げて、出し続けているのは、まさしく「狭い観念の殻に閉じ込められた現実世界」を打破したいという気持ちがあるからだ。

 その為、観念を通して見る世界は世界のごく一部であり、本当の世界はもっと広く大きいということを強く自覚して奮闘している作家の言葉や写真の力を濃縮させて、それらの力を最大に発揮できるような誌面づくりを心がけている。そうした基準に沿っていれば、科学者であろうが文学者であろうがジャンルを問わない。その方の力が必要だと思えば、白川静さんであれ誰であれ、ストレートにこちらの考えを伝えてお願いする。

 観念の殻というのは観念の生き物である人間にとってなかなか手強い敵だから、普通にぶつかっていったら、はじき飛ばされてしまう。だから、それを凌駕できる人の力をお借りすることが、どうしても必要になる。

 そしてもう一つ、私は写真というものの可能性を強く信じているが、それはまさしく「狭い観念の殻」を打ち破る可能性のある表現だと思っているのであり、自然とそう思えるのは、それだけの力を秘めた本物の写真を数多く知っているからでもある。だから、必要と思えば、世界中のどの写真家とも組む腹づもりがある。

 杉本博司氏の写真は、その制作の姿勢として、狭い観念に従属するような性質が強く、そこから出てくる世界はとても狭いものになって、それゆえに作品を見ることに疲れが生じるのだが、その閉塞感や疲れを、”時代の空気”とでも言いたげなレトリックが、結果から導いたこじつけのようで、どうも許せないと思うのだ。

 実力のある写真家もそうでない写真家も、純粋な客観などというものはあり得ず、作品を通して自分をさらけ出すしかない。自分をさらけ出せるように自分と自分の環境を整えている人こそが、ユニークであり、オリジナリティであり、自由と言えるのではないか。

 自分をさらけ出すというのは、簡単なようで実はそうではない。自分で自分をさらけ出しているつもりになっていても、誰かの受け売りであったり、周りの雰囲気に流されていたり、知らず知らず様々なバイアスが自分にかかっていて、そのバイアスの部分を出力しているにすぎないことが多い。写真家でも作家でも、引用の多い人は、自分をさらけ出せておらず、見ていて、とても不自由なものを感じる。

 その不自由さの構図のなかに作品と見る人を置いて、対峙させるやり方は、よくないと思う。

 作品をそのまま裸で放り出せばいいのだ。わかる人にはわかる。わからない人にはわからない。古い言い方だけど、それで十分なこと。ただし、その際、フェアじゃなくてはいけない。たとえば、私が「風の旅人」で掲載してきた写真を、杉本博司氏の写真のサイズに引き伸ばしたり、照明の技巧を凝らせば、彼の作品より圧倒的なものになると断言できる。

 現代社会は、なぜか本物と触れることが難しい構図がある。雑誌などでも、「狭い観念の殻」を打ち破るような写真はほとんど掲載されず、見る側が、自分の狭い観念をなぞる程度のものが多い。その理由を考えてみると、偽物は短い時間に大量生産ができて大衆消費社会に適合しやすいが、本物は、作るのに時間もかかるし、手間もかかるから、そういうわけにはいかないのだろう。また人々の目が肥えてしまったら、買い控えなども起こり、経済的にも不都合なことが多い。そうした仕組みのなか、本物が見えにくくなり、人々が本物に触れる経験も少なくなり、その結果、騙されやすくなってしまう。

 もちろん、たとえばブランド品など、紛い物であっても、それを知らずに購入して喜ぶ瞬間の喜びという感覚そのものは真実だから、否定するつもりはない。 

 しかし、その喜びというのは、自分の観念の殻のなかにある価値観をなぞったものにすぎないことが多く、本物を知った時の自分が覆されるような戦慄的な喜びとは違う種類のものだ。でもそこまで言うと、そうした戦慄的な喜びを知っていることの方が幸福なのかどうかという議論になってしまう。この幸福は、それを一度でも味わった者にしかわからないものだから・・・。

 それでも敢えて言うなら、芸術が本来備えている力というのは、その戦慄的な喜びを与えるものではないかと私は思う。

 それはなぜか?

 人間は、他の生物以上に飛躍的に発展してしまった認識力と観念によって、世界がミクロからマクロまで様々な領域に分断されて感じられて不安に陥る特性があり、芸術の力というのは、そうした自分自身の世界の目え方や捉え方がいかに偏狭なものか愕然と気づかせてくれるからなのだ。自分にも、そこにある芸術にも、その芸術をつくった芸術家にも、自分の知らない大きな力が働いていると実感させられ、その実感こそが、世界に対する信頼となる。

 ホンモノだと信じられる対象を欠いている人からすれば、複雑怪奇な現代社会で、なにを甘いことを言っているのだ、ということになるかもしれないけれど、その甘さを木っ端微塵に砕いてくれる力を秘めた作品であるならば、それはそれで大きな意味があると思う。

 しかし、安直なレトリックに基づいた杉本氏の作品は、私の甘さを粉砕するほどのものではなく、すなわち「出来事の終焉」という近代の幕引きを演じるほどの恐ろしいものではなく、観念の柵で囲われた公園のなかの遊びとしか感じられないのだ。

杉本博司展の展示写真の一部→http://www.mori.art.museum/contents/sugimoto/about/index.html