事物と言論の剥離

 写真論や美術論を語る時、そこにある「事物」を見て語るのではなく、他の写真論や美術論というテキストを勉強して、その知識の範疇で語られることが多く、その知識の中の「記号」が増幅していくことがある。

 しかし、そのテキストを書いた人は、自分に都合の良い材料だけを選び出して、それを全体の傾向を示すものであるかのように語っていることが多く、それを教材にコピーを繰り返すのは、あまり良いことではないと思う。

 特に、アートはニューヨークが先端であると共有認識を持っている人たちは、その中で繰り返される言論に関する共通の知識を持っているため、偏狭な世界のなかでア・ウンの呼吸ができてしまい、その増幅によって、大きな勢力ができあがる。

 たとえば、「写真の骨董化」という言葉にしてもそうだ。ニューヨークのギャラリー周辺では、プリント写真が高値で売買されて、骨董化される現象があったとしても、日本では、ニューヨークに過敏にアンテナを張っている人以外、そのようになっていない。

 ニューヨーク周辺のアートの動向が世界の最先端でいずれ世界の標準になるというのは、ニューヨーク寄りの評論家が作りあげる論述であって、実際には、ニューヨーク世界という局地的な現象にすぎない。もちろん、メディアの相乗効果によって、偽りの現実が本当の現実らしきものになることはあるだろうが、泡のように、すぐに消える。

 写真家の石元泰博さんは、日本の戦後の都市写真のパイオニアであり、現在活躍中の写真家の多くが尊敬する写真家であり、アメリカでの評価も高い。 

http://www.fujifilm.co.jp/photographer/2004_03ishimoto/

 84歳の今でも、いわゆるサロン的なものが大嫌いで、アシスタントもつけず、カメラを首から下げて現役で活躍されている。その石元さんは、今年、自分の全ての作品を出身の高知の美術館に寄贈した。自分が他界した後にゴタゴタするより、生きているうちに面倒なことは片づけておくという発想でだ。こういう人にとって写真は骨董でもなんでもなく、時代や世界と向き合う自分の精神(生き様)の反映なのだ。

 石元さんに限らず、写真を骨董趣味などと決して認めず、全身全霊で写真を撮り続けている一流の写真家は多く、彼らは、自分の写真が自分の意思に沿う形で活用されるならば、金銭にはまるで頓着がない。(もちろん最低限、生活のためのお金は必要だが。)

 「風の旅人」が、日本、海外を問わず、自分で言うのもなんだが、あれだけのハイレベルの写真家で構成され、広告も入れずに、1200円(税込み)で販売できるのは、そうした理由からでもある。

 はっきりと言って、「風の旅人」で掲載されている石元さんをはじめ、セバスチャン・サルガド、エミット・ゴーウィン、ジャン・ゴーミィ、レイモン・デパルドン、呂楠、マイケル山下、クロウス・デ・フランケ、野町和嘉水越武今森光彦中村征夫岩合光昭等々は、日本でも世界でも評価されている”アーティスト”であるが、写真を骨董と認めないし、その作品を見ても、骨董だと感じられない人々である。

 こういう人の作品は、言葉を超えた領域にあるので、評論家は題材にしにくい。自分の言葉が負けてしまうからだ。「写真の終わり」などのフレーズが、彼らの写真を前にすると、気恥ずかしいものになってしまう。そのため、必然的に、言葉で拮抗できるか、それ以下の写真が評論の題材として選ばれ、「写真の動向」という枕詞とともに一人歩きを始める。

 ネット上のデジタルデータは骨董にならないし、オブジェにならない。それは事実だろうが、骨董にならないからといって、写真本来の属性が生かされる最善の場になっていく考えは偏っている。また、デジタル写真が、かつての銀塩写真を、おしなべて、すべて銀塩フィルムという物質的特性によって骨董的価値に変えてしまった、という考えも偏っている。

 それは、事物を見ず、事物と向き合わないことからくる発想だと思う。

 写真は、プリントにして販売されることだけを目的とするものではない。印刷メディアによって、骨董化されず、かつ写真本来の属性を生かすことは可能なのだ。その属性というのは、特定の瞬間の唯一の刻印ということではなく、人間と世界の間に生じる呼応、および事物に対する配慮がなかったり事物に向き合う姿勢が欠如しているために多くの人が見逃してしまっている繊細な機微を捉えて示すことで世界の豊かさを再確認すること=神は細部に宿ることの証など。そして、これらは、端数を切り落としたり、検索機能は優秀でも全体と細部の関係性を掌握しにくいネット上のデジタルデータだと伝えにくい特性である。

 今日の写真を取り巻く環境のなかで、一番問題なのは、実はそこにある。

 「写真の終わり」というフレーズを与えるとすれば、それは写真作品に対するものではなく、写真を取り巻く環境に対してのものなのだ。

 すなわち、特に雑誌を中心としたメディアによって、写真が殺されてしまっている。「写真の終わり」と錯覚させるような陰の演出者は、実はメディアそもののの構造のなかにある。その構造は、メディアのなかで記事をつくり、写真をレイアウトして、誌面を編集していく一人一人と、その周辺に寄生する論説者達のスタンスの集まりとも言えるだろう。

 現在、多くの一流写真家が嘆いていることは、写真を発表し、写真の特性を生かす媒体がないということである。

 巷に溢れる雑誌は、ビジュアル優先という傾向のなかで、無数の写真が使われている。それらの写真は安直な方法で、安直な姿勢に基づいて撮られた断片的情報で、最初から消費されることが前提になっている。「消費」というのは比喩ではなく、実際に読んだ後、ゴミ箱に捨てられる程度のもので、そこから何かしらの啓示(写真には、それを生じさせる可能性が本来的に備わっている。なぜなら、人間は見る力によって、社会化されていない時間を手に入れ、社会化されていない、より大きな時間を生きることが可能になるからだ)を受けることなど、絶望的に難しい状況だ。

 そういうものが溢れていくと、真摯に事物と向き合っている写真家の発表の場が少なくなるということに終わらない。事物と向き合うことが一体どういうことなのかという感覚の喪失が、世の中に蔓延していく。事物と向き合わずして言葉(というより記号)が発せられ、その言葉(記号)に強さを与えるため、過剰なレトリックや、その道の権威?からの引用が行われたりする。そこに生じるコミュニケーションは、対話にならない。話しの展開に呼応しながらチェイスしていくものにならず、相手に関係なく「自分の知っていること」を言いたいから言っているだけだったり、自分を権威付けようと躍起になったり、大仰な言葉で煙にまいた逃げ口上になってしまったりする。

 こうしたことは、大量消費社会の煽動者として自らを位置づけざるを得ない構造を持つ消費メディアから発せられる大量の情報が、至る所に堆く積まれた現代社会の中で生きる私たちの宿命的な構図になってしまっているが、その種の全ての現象に対して、私は「異議あり」と言っているのであって、杉本博司氏の作品にとりあえず写真として地位を与えた上で、杉本博司の作品を批判しているのではない。あえて彼の作品を評して言うならば、ONE OF THEMと言っている。そのうえで杉本博司氏の骨董屋的手口である「一つ一つの不毛な注釈」を、稚拙な法螺にすぎないと非難して書いているのだ。

 もちろん、上に述べた写真の置かれた環境や雑誌をはじめとする媒体に対する意義申し立ては、写真という事物を介してこそ意味を持つ。このブログに書かれていることが「異議申し立て」そのものなのではない。この場は、あくまでも私の中のガスや塵の圧力を高めるためのものであり、そのガス圧が高まることで気合いも入る。

 異議申し立ては、「風の旅人」のなかに凝集させるしかないという気持ちで、創刊から第17号まで作ってきたし、これからもそうだと思う。     


以下、otaniさんのコメント

(私が文中でデジタルデータと書いてしまったので、デジタルカメラと受け取られてしまいました。本文をネット上のデジタルデータと書き換えました。

 あと、写真家の不幸という部分、言葉が足りなかったので、発表の場が少ない に変えました。この二つの言葉の違いによって、OTANIさんの文章の趣旨が違ってしまうかもしれませんので、コメント欄ではなく、こちらに添付致します 佐伯)

『フィルムに定着された事物から何が言えるのかを考えるのではなく、まずもって事前に言いたいことがあったのでは事物を見ていることにはならないっていうのは確かに同意するのですが、その「写真本来の属性」というのはデジタルで撮ろうがフィルムで撮ろうが本質的には変わらないと思います。ただフィルムで撮るとなると、金が無ければフィルムは買えないし、そのためには働かなければいけないわけで、自身の写真家的存在をいかに立ち上げ、持続するかに意識が向かわざるを得ないという意味では、フィルムで撮ったほうが緊張感もあるし気合いも入る、それに現像したりすれば自分の手が薬品で荒れたりもするし、なんだか得も言われぬ充実感もあるというだけのことであって、デジタルで撮っていて楽しいならそれでも構わないというか、趣味の問題なのかなって思いますし、「写真本来の属性」が生かされるかどうかっていうのは、写真家というのは別にシャッターを切っているだけではなくて、色々考えて活動しているもんなんだという前提が写真家と受け手の間にどれだけ了解されているかの問題だと思います。

ふつう人間はカメラのように非人称な視線でもって風景を見ることってないですし、できないんじゃないかと思うんです。絞って撮った写真映像のように現下の事物全てに等しくフォーカスが当たって見える意識の状態っていうのはたぶん言葉が停止してしまった状態なんでしょうけど、写真を真に見ることは仮死状態に成ることなんだぞ、と他人に非人間的な見方を強要したところで不毛な気がしますし、写真というのは不快で不吉なもんだというのは写真に関心を抱くひとなら誰しもが感じてることなんじゃないでしょうか。男のひとなら男のひととして写真を見てしまうし、そこから自らの男を否定し女になりきってみたところでオトナとしてしか見れない自分を発見するほかなく、いまさら子供になるのは無理だけど無邪気さをもって写真を見ることくらいはできるかもしれない、そして最後は銀塩の粒子に成るんだ、みたいな夢を見る悦びは胸に秘めておいたほうが美しいような気もします。

「真摯に事物と向き合っている写真家が不幸になる」っていうのはどうなんでしょうか。真摯に事物と向き合っていれば他人のウケなんて当て込まずに生きていけますから、不幸になんてならないんじゃないでしょうか。期待もなければ裏切りもないでしょう。もちろん他人に認められれば嬉しいし、お金は欲しいですけど。というか誰しもがカメラもって写真撮れば済む話で余計な啓蒙は不要だと思うんですよね。カメラは人間に自身の感情の客体視を訓練する機械だと思うので、写真を撮る/見るっていうのは個人が自習の時間をつくるために立ち止まる理由になればそれでいいと思うんです。ぼくにとってここで語られている「写真」はどうも大袈裟だなと感じてしまいます。』 (2005/12/20 15:41)