心の時代

 心をテーマにした雑誌の創刊を告知する新聞広告を見た。その趣旨は以下のようなものだ。

 「モノからココロへ。そんな時代を反映。いま話題のトピックや、世の中の気になるテーマを、やさしい心理学で検証する」と。

 そして、テレビや雑誌によく出る心理学者のコメントが入る。

・・・心の時代といわれながら、本当に必要な心理学や精神医学に関する知識や情報は、行き渡っていない。うつ病の増加やインターネット自殺など新しい問題の出現がそれを物語っている。そんな現代社会で、「心の問題の知識」をわかりやすく、正確に伝え、すぐに役立つ、ときには安らぎや楽しみを与えてくれる雑誌となることを願う」と。

 「風の旅人」のキャッチフレーズは「心の旅に誘います」であるから、心をテーマにした雑誌ということになると思う。しかし、私は、すぐに役立つ心理学で対応しようとは一切思っていない。

 私がイメージする「心」というのは、「構え」みたいなもの。

 例えば、プロ野球イチローや井口にとって、外の世界(相手ピッチャーのボール)と、内の世界(打つという運動)の間をつなぐものがバッティングフォームであり、それが、彼らの「構え」なのだけど、私たち人間が生きていくこともまた、外の刺激(ボール)を受けて、それを何かしらの運動(ヒッティング)につなげていくことであり、その二つの間の「構え」すなわちバッティングフォームに等しいものが、「心」なのではないかと私は思っている。

 イチローのバッティングフォームを分析すれば、イチローの本質に近づくことができるかもしれないが、本質がわかるところまではいけない。力学的に簡単に分析して、あのフォームを真似しても、他人が打てるようになるわけではない。イチローから学ぶところがあるとすれば、あのフォームを作りあげていくイチローならではの必然対応力を知ることで、すなわち、「構え」=「心」をつくることがどういうことなのかを知ることだろう。

 井口やイチローなど一年目から大リーグで結果を残した選手は、渡米する前から、大リーグで戦っていくに適したフォームに改善した。それにひきかえ、中村選手のように、”自分流”をつらぬこうとして日本にいる時と同じフォームでバットを振り回した選手は失敗した。

 イチローも井口も、相手(外の世界つまり大リーグのピッチャーやボールの特性)のことをよく知り、自分の運動を支える筋肉や瞬発力など鍛え、かつ自分の身体能力の特性をよく知り、そのうえで、相手と自分とのあいだを理想的につないで対応できるようなフォーム(構え)を、少しずつ自分のものにしていった。

 相手の特性と自分の潜在的行動能力を知って、その二つをつなげようと努力したことが大事だ。そして、新しく修正して実現したフォームで、現実対応(試合や練習)を重ね、その手応えのなかからさらに微調整を行い、結果的に、大リーグという新しい環境で生きていくための自分にとって理想と思えるフォームを獲得したのだ。

 「心」もまた、野球選手のバッティングフォームに等しいものだ。

 バットの握り方など、基本的なことは誰でも同じものが必要になる。その基本を踏まえたうえで、外の世界(対戦相手)を知ろうと思い、内の世界(己の行動特性)を知ろうと思い、その間をどのようにつなぐべきか考え、調整していく。自分ならではの構え(心)は、そのようにしてできていく。外と内から目を背けて、フォーム(心)だけを研究しても何もならない。また、”自分流”だと開き直る態度も、実は、外と内から目を背けていることと同じだ。

 相手の実力(外の世界)や自分の運動力や行動力を冷静に見つめると、自分に通用するかどうか不安になるので、それらを見ないようにし、自分のフォームだけを研究したり、”自己流”だと開き直ったりする。

 そうした頑なな態度は、自信があるからそうするのではなく、むしろ”不安”からくるように思う。相手を見れば見るほど不安が増幅するから、見ないようにするという意味において。

 そして、イチローや井口のように、日本での成功を捨て、新しく大リーグに挑戦するために自分を改造する衝動もまた、不安に基づいている。

 違いが現れるのは、自分が不安定になっている時の、構え(心)の作り方なのだ。

 一方は、相手を見て、自分を省みて、そうすることによって不安はより大きく膨らんでしまうのだが、それでも敢えて信念を持ってそうして、それに対応するための構え(心)を作ろうとする。そしてもう一方は、不安だからという理由で、相手を見ず、自分を省みず、それまでの自分の構え(心)を変えることなく、その場限りの措置を行おうとする。

 その場限りの措置というのは、「簡単ですぐに役立つ、やさしい心理学」の類だと私は思う。

 その場限りの措置というのは、「わかったつもり」になって安心しようとすることであり、いくらそのように「わかったつもり」になっても、現実世界は甘くないのだから、すぐにまた、うまくいかなくなってしまい、その不安定さから逃れるために、また「わかったつもり」になれることを手近なところに求めていては、いつまでたっても根本的な解決にならない。

 自分らしさというのは、イチローや井口のフォームのように、自分ならではの構え(心)をつくりあげて、それによって、相手から投げ込まれるボール(外世界の刺激)を打ち返せるということなのだ。

 そして、その構え(心)は、物質のように静止した形ではない。強い働きを引き起こすポテンシャルを秘めたものだ。例えて言うならば、水の入った容器の下にホースをつけて、その容器を地面と同じ高さに置くと水はチョロチョロとしか流れないが、高く持ち上げることによって、位置のエネルギー(ポテンシャル・エネルギー)を獲得した水は勢いよく流れる。すなわち、構え(心)をつくるというのは、水の入った容器を、地上の現実世界から高く上に持ち上げて、ポテンシャル・エネルギーを獲得することに他ならない。

 ポテンシャル・エネルギーが弱いと、水は勢いよく流れず、濁りやすくなる。

 野球選手で言うと、大リーグという現実世界のスピードボールや荒れ球や癖球に翻弄され、必ず、自分のフォーム(心)を崩してしまい、ボールがまったく打てなくなってしまう。

 そうならないためには、気休めのような「やさしい心理学」で慰みを得るのではなく、高いポテンシャル・エネルギーを秘めた自分のフォーム(心)をつくる努力するほかなく、その方法は、世界から目を逸らさず、自分からも目を逸らさないというプレッシャーを、自分にかけ続けるしかないのではないか。

 そうした不安に全ての人間が耐えられないという人もいるが、はたしてそうだろうか。

 なぜなら、人間は自らが不安定な時ほど”救い”や素晴らしい出会いに敏感になれる。その反対に、安定な時ほど、”落胆”や”失望”に敏感で、出会いに対して鈍感になってしまうからだ。

 つまり、自分を安定した状況に置いておきたいと思って外の刺激を遮断すると、素晴らしいと感じる出来事が自分に起こらないし、簡単なことで落胆する。その逆の、敢えて不安定なベクトルに自分を置いておけば、素晴らしい感じる出来事が自分に起こりやすくなるし、少々のことでは落胆しない。

 そもそも、不安のない希望など、有りはしない。不安を取り除くことばかりに躍起になっている現状世界は、”希望”の芽を一生懸命に摘み取っていることに等しいかもしれない。そして希望のない人生は、生きる手ごたえも無い。

 現代社会で人間が陥っている”不安”は、世の中に対する不安なのではなく、自分が生きているかどうか手応えとして実感できない不安なのではないか。

 大事なことは、自分の陥っている不安が何に対するものか自覚すること。もしも、その不安が、生きる手ごたえに関するものであるならば、その不安の中には、自分の生を取り戻したいと願う本当の自分が在る筈。少しでもそう願う自分が在るのならば、それができるかどうかわからないけれど、いつか必ずそれができる、そうあって欲しいと念じ続けながら、世界を見つめ、自分を見つめ続けることが大切で、そうした構えを作ることが、自分ならではの心をつくることだろう。

 そして、そのように自分ならではのアプローチで作りあげた心によって、イチローや井口のように厳しい現実世界に対応していくために、さらにフォーム(心)の修正を行っていく。希望というのは、そのように、フォーム(心)と実践をつなぐ最善の在り方を求めていくヒリヒリとした祈りのような緊張状態を指し、そうした「希望」のなかで生起する「出来事」は全て「生」のリアリティとなって自分に返ってくるのではないかと私は思う。