21世紀の芸術家や思想家

 アクエリアンさんのコメントを刺激にして、もう少し考えます。

 人は誰しも若い頃、宇宙の向こう側はどうなっているのか? 世界とは何か? 人間はなぜ生きているのか? われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのか?といった、根元的で、形而上学的な問いを持っていたと思うのです。

 しかし、社会に入ってうまく生きていくことを優先しはじめた時から、そうした問いと向き合うことを避けがちです。避けているからといって、そうした問いを完全に断ち切れるかというと、そうではなく、人生の節目など重大な局面で、突然、顔を覗かせたりします。そうした問いを考える暇なく会社のために一生懸命に働いてきても、定年になった瞬間、振り出しに戻ったように、思い悩むこともあるでしょう。

 人間存在というのは、その種の問題から完全に逃げ切れない生き物なのだと思います。

 人間は、社会のなかでうまく生きていくことで頭がいっぱいになる時、根元的で形而上学的な問いを、しばらく忘れるだけです。

 社会というのは、人間が生きていくうえでとても大切な場であるけれど、人間がつくった狭い約束事の世界でしかありません。にもかかわらず、『頭がよく見える話し方』などが大ベストセラーになってしまうように、社会で処世的に生きることだけが尊重される風潮があります。そんなことばかり積み重ねて根元的な問いから目を逸らしていても、いつか必ず、そのしわ寄せがくるのですが・・・。

 そして、思想家や芸術家というのは、若い時に誰しも持っていた根元的で形而上学的な問題を、生涯にわたって追究していき、表現し、人々にインスピレーションやリアリティや生きる手応えを与える人だと思います。絵を描いたり小説を書いたりといったスタイルはどうでもよく、どこまで深くこの問題と向き合っているかが、芸術家や思想家の真価を表すのだと思います。

 どこまで深くといったことが問題なのですから、ただ考えていればいいということではない筈です。なぜなら、根元的、形而上学的な問いに関するだいたいの答えは、先人が考え尽くしているからです。だから、そうしたものを学習せずして深刻ぶっているのは、ただの怠慢です。先人が見つけられなかった問いと答え(つまり、どんな本を読んでも書いていないこと)を探し求めている人こそ、本物の芸術家であり思想家なのだと思います。

 現在は、そうした基本的な学習もせずに、アーティストを気取ったり、「わかりやすさ」をポイントにした思想などがマスコミなどに重宝されて、それゆえに混乱してしまっているのではないかと私は思います。

 私が抱くイメージでは、現代は、ソクラテスが現れる前のソフィスト(詭弁家)達の時代、もしくは、古代中国の諸子百家の時代のようなものなのでしょう。

 そのように詭弁家がたくさん輩出される時は、社会が文明化されていくプロセスのなかにあります。

 文明化というのは人間が傲慢になっていくから万物の尺度が人間になる。それゆえ、個々の人間の考え方のちょっとした差異が別種の固有の思想のように主張されて、聞いている方は、わけがわからなくなる。聖書の時代、バビロンの塔を建設する時に、神の怒りに触れて、人間の言葉がバラバラになってしまうのも、同じことを言っているのだと思います。

 古代ギリシャの場合、ソフィストに対して、ソクラテス無知の知を唱える。そして、古代中国においては、道教の始祖の一人とされる荘子が現れる。荘子は、このように言います。

 「筌は魚を在(い)るる所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在るる所以なり。兎を得て蹄を忘る。言は意に在るる所以なり。意を得て言を忘る。吾れいずくにか、かの言を忘るるの人を得て、これと言わんかな」。

 魚をとるために筌を用意しても、魚がとれたら筌のことは忘れる。兎がつかまったら蹄(わな)のことは忘れてしまう。言葉だって同じ。意味をとらえたあとは、言葉には用がなくなる。私は、そのように言葉を忘れることのできる相手を探して、ともに語りあいたい。 

 現代社会においても、言論世界には古代ギリシャや、中国の春秋戦国時代のようにソフィストが大勢いて、「言葉」で相手を打ち負かしたり煙に巻いたりして、自らの知的優位性を保とうと躍起になっています。そして、多くの詭弁家は、言葉を駆使しながら、意味を捉えるために「言葉」があることを忘れています。

 ならば、思想家が原点に立ち帰って考えて表現すべき意味とはいったい何なのか?

 それは、人生の意味であり、世界の意味でしょう。

 この問題については、多くの先人達が考えに考え抜いて、今日まできました。しかし、それら先人達の言葉では納得しきれない問題が、今日の世界にはある。

 20世紀科学の成果によって、人間の意識の地平は漠然とではありますが、既に大きく拓かれているからです。

 ならば、そこに思想家や芸術家が考えて表現すべき新しい現実と、人生や世界の意味がある。

 その意味を捉えることこそが、人類の新しい出来事なのではないでしょうか。

 にもかかわらず、その仕事がとてつもなく深遠で手に負えないから、それを避けて通り、現状をなぞるようなトリビアルな知的遊戯にかまけているインテリ気取りは多い。

 「出来事の終わり」や「世界の終わり」というのは、その種のインテリ気取りの詭弁の世界が終わるという風に解釈した方がいいのかもしれません。

 そして、今日の複雑怪奇に見える世界の現状の上に立って、どんなに時間がかかろうとも、敢えて人生の意味と世界の意味を探り求める人は、『頭がよく見える・・・』ほどは目立たないけれど、確かに存在している。

20世紀で人類が見たこと、知ったことを踏まえて、人生の意味や世界の意味を探究して表現し、人々にインスピレーションやリアリティや生きる手応えを与える。

 21世紀の本当の芸術や思想は、そのような<かたち>で新しい出来事となって生じてくるのだと思います。