血や肉になる問い

 映像ディレクターの佐藤一彦さんが制作した映像作品を何本か続けて見た。

 思想家・前田英樹さんの思索紀行のシリーズで、宮本武蔵・『五輪書』の哲学と、「保田興重郎の見た日本」、それ以外に、白州正子さんの「隠れ里を旅する」というものだ。

 どれも日本の美学とか美意識につながるもので、こうしたテーマを表現したものは他にも色々あるが、今回の映像ほど自分の根っこに響いてくるものは稀有だ。

 日本の美などといって伝えられるものの多くが、知識を整理して伝えたり、整理された知識をなぞって表現するだけのものが多く、根元から滋養を吸い上げて血や肉になる感覚を得られるものではない。

 映像(写真を含む)や文章などにおいて、現象や知識や観念をなぞるようなものが現代社会には溢れている。

 現象をなぞるというのは、「この社会には、こういう事実がありますよ!」という類のものだ。そして、知識や観念をなぞるというのは、ニュースなどで社会評論家が喋っていることや、本で得た知識を、わざわざ象徴的に作品化したものだ。「現代社会の希薄化している人間関係を表現してみました」などと。そして、現象をなぞる行為と観念をなぞる行為というのは、実は裏表の関係にある。たとえば、若年者の犯罪現象を言葉で伝える人がいれば、その現象を「心の闇」という観念にしてビジュアルで表現する人がいるし、写真表現などで自傷行為にフォーカスして時代の象徴のように伝える人がいれば、それを見た評論家が、「心の闇」と説明する。

 現象と観念や知識のもたれあいのような構造は、アーティストと批評家のあいだにも顕著にある。高名な美術批評家や文藝批評家はテレビに出る評論家よりも難解な専門用語を使うし文章も上手いが、基本的なスタンスと構造は同じである。

 そうしたもの全てに共通していることは、喋っている方も、作っている方も、自らの内側からの衝動で「こういうものを表現したい」と思える具体的な情熱がないことだろう。そして、その具体的な情熱を形にするため、自分が納得できるところまで追究していないことだろう。

 さらに言うなら、「表現したいもの」が仮にあったとしても、個人の趣味に閉じたもので、自分の属する世界全体に対して「こうあって欲しい」と本気で願えるものでないことだろう。

 「こうあってほしい」と思う世界が、自分に都合のよい世界であっても構わない。

 「こうあってほしい」という具体的な情熱で作られたものは、善や悪の分別を超えて、作品としての剥き出しの存在感を発揮し、人間の根本的なところに響いてくるのではないか。

 今日の表現世界で問題だと思うのは、そういう具体的な情熱が無いのにも関わらず、形式的に作っているだけだったり、意味深につくったものを勿体つけて説明することだ。さらに評論家が便乗して、どうでもいいことをそれらしい体裁に整えて増幅させる。

 これは、現代アートでもそうだし、伝統的な芸においても同じだ。専門的な知識や事前学習がなければ理解できないなどと言う。

 杉本博司氏の写真も、難解だから事前の予習が必要だなどという声をよく聞くが、そういうものは、やはりどこかでごまかしているという気がする。

 その道に精通すればするほど、より魅力が深まるというものは確かにある。しかしそれは、その道に精通しなければ魅力がわからないということではない。素人でも何かしらのインスピレーションを得る。その道に精通すれば、そのインスピレーションをいろいろな形で味わう智恵がつくというあたりが本当ではないか。

 それはともかく、佐藤さんがディレクションした映像は、合議制で作っているという感じではなく、佐藤さん自身が「こういうものを作りたい」と思う線に沿って作られているという感じが伝わってくる。しかし、それが押しつけにならないのは、作品が「解」を示しているのではなく、「問い」を提示しているからだ。

 生身の一人の人間が人間として世界を問うていくこと。世界を真摯に問うていくことは、世界を自分ごととして引き受けていくことに等しい。

 自分自身がつくりあげた全体性の視点に基づいて世界を問うているから、問いが、ユニーク(固有)になる。佐藤さんの映像作品は、そういうものだ。

 世界の問い方というのは、世界との付き合い方であり、もしも表現に新しさがあるとすれば、それは、世界との付き合い方=問いの新しさではないかと私は思う。

 今日のテレビ映像や新聞に氾濫する“問い”は、

 なぜ、生まれた赤子を誘拐したのか? なぜ、○○は離婚したのか? なぜ、小泉首相靖国を参るのか、なぜ中国や韓国はそれに抗議するのか? なぜ犯罪の低年齢化が進んでいるのか? なぜテロは起きるのか? どうすれば戦争が無くなるのか?、どうすれば、偽造マンションを防げるのか?どうすれば株で儲けることができのか? どうすれば、頭がよい人に見えるのか?などと、世の中の現象に対する問いが圧倒的に多い。

 それら現象の細部への問いに対して、全体的な視点をもって「いろいろ細かいことはあるが、そもそも、世界は既に死んでいるのではないのか?」という問いを発する表現者もいるだろう。しかし、その人が過剰なレトリックを使わなければならないのは、「こういうものを作りたい、こうあって欲しい」という具体的な情熱が希薄なためか、それがあったとしても表現と逆行しており、自己欺瞞に陥らざるを得ないことだ。 

 「こういうものを作りたい、こうあって欲しい」という具体的な情熱。その情熱が自己矛盾とならないためには、自分が前向きに生きるための問いでなければならない。

 未来はどういうものになればいいのか? 私たちは本当は何を愛し、何を求めているのか? 本当にかけがえのないものは何なのか? 私たちが本当に美しいと思うものはどういうものなのか? 

 こうした問いは、簡単に答が見つからないから、今日のメディアでは敬遠されがちだ。

 だから、佐藤さんの映像作品が受け入れられにくい土壌がある。しかし、簡単に受け入れられないという葛藤が、全体性の視点を深めることにつながり、表現に奥行きを与えている

 そして、稀有なる邂逅によって、こうした作品に触れると、なぜだか勇気が与えられる。それはおそらく、たとえ意識の表層で忘れていても、人間なら誰しも、本質的な問いを無意識の領域で問い続けているからだ。

 人間が人間に成るための血となり肉となる問いは、現象の背後にある貴い何かに対して向けられるものであり、そうしたことを、一人一人が意識せずとも、人間生命という大きな実態は感知しているのだろう。