道具と機械と芸術と言葉

 夜、テレビの報道ステーションで、トリノオリンピックのスピードスケート代表の岡崎朋子選手を紹介していた。

 岡崎選手は、34歳で、四回目のオリンピックになる。私が感心したのは、スケートシューズで氷を捉える部分にあたる一ミリ幅のエッジについての話しだ。アルミ素材とか最新のエッジを試みている時は、どうしても最初の100mが納得いくタイムで滑れなかったのに、去年まで使い慣れていたエッジに変えた途端に素晴らしいスピードで滑ることができて、オリンピックの代表になることができた。

 僅か一ミリの刃先に乗り、それを操らなければならないから、脚の様々な部分に筋肉をつける必要がある。そのため、デコボコの山道を走ったり、階段を駆け上ったり、自分を追い込むだけ追い込んで、心を研ぎ澄ませるとともに、逞しく鍛え上げられた脚の筋肉がすごい。そして、その筋肉の力を最大限に引き出せるかどうかが、道具との相性なのだ。実際に道具を試し、感覚を掴み、また筋肉を鍛え、道具を試しということを繰り返していくうちに、道具と筋肉が有機的に結びついて一体化される。だから、岡崎選手の筋肉の付き具合と神経回路に則した道具でなければ、記録は出ない。軽量化された新素材を使うことがいい結果を生むとは限らないのだ。

 スピードスケートのオリンピック選手という、ある種、極限の世界で闘う特別の人がケースになっているが、道具と人間の身体と心の微妙な関係が伝わってきて、とても感銘を受けた。

 これを見て思い出したのだけど、アンコールワットの復興支援をしている石澤良昭さんの話しで、石澤さんは、日本から石工を連れて行って、現地の人々を石工に育てようとしている。 欧米諸国は、復興支援ということで、大型機械を使い、コンクリートを流し込んで崩れた遺跡を固めてしまう方法を取るが、それだと、支援活動をやめた途端、熱帯雨林の威力の前に元に戻ってしまうだけだからということで、石澤さんは、カンボジア人が信仰心に従って寺院遺跡が崩れた際に自分たちで修復できるような状態をつくろうとしている。そのために、機械の使い方を教えるのではなく、時間をかけて石工を育てるのだ。そうしないと、技術や寺院を思う気持が根付かない。そして、石工を育てるというのは、ハンマーを振り下ろすための身体をつくりあげること。背中に、石工らしい筋肉がついてはじめて、一人前の石工だと語っていた。

 道具も機械も、人為的なものだからという理由で一緒くたにしてしまう人がいるが、この二つはまったく異なるものだ。何が違うかと言うと、道具の方は、その道具を使用する対象の機微を読み、かつ道具を使う自分を何度も省みて、自分の身体を道具に適応させなければ使いこなせない。道具を媒介にして、世界や自分自身との対話が繰り返されているうちに、自分自身も向上し、道具も、使う人の癖が反映されて固有のものになる。

 それに比べて、機械は、相手との対話よりも、操作の仕方を頭で覚える方が大事になる。また機械に合わせて自分を省みたり、自分の身体を改良したりしない。誰が使っても同じであることが前提になっているため、機械を見ても、使い手を偲ばせるということはない。

 白川静さんの辞書によると、機械の「械」は、「からくり」という意味で、古代は、手足にはめる刑罰の道具である「かせ」というものだったそうだ。機械は、構造的に組み合わせるもののことで、もとは軍事用に作られた器具だったと孫子が書いている。

 それに比べて、道具の「具」は、「そなえる」とか「つぶさに」という意味で、もともとは、祭器だ。神に対して恭しく捧げ持って具えるもの。また、つぶさに用意ができていること。 そして、道というのは、歩くための道だけでなく、道理とか、芸の道など精神的な意味にもつかわれるが、もともとは、首を手にもって異境に行くという意味。そのこころは、首を手に持ち、その呪力によって、邪霊を祓い清めながら、他の氏族のいる土地を進んだということ。

 異境というのは、何も地理上のことだけではないと思う。

 自分の土地というのは、既知の世界。異境というのは未知の世界。言葉を媒介にして知識を得ることも未知の世界。木で何かを作ろうとする時、木の心は自分にとって未知の世界だし、海を渡ろうとする時、海の心もまた未知の世界だ。知識と人間をつなぐ言葉や、木と人間をつなぐノコギリや、海と人間をつなぐ舟は、人間にとって道具にあたるわけだが、それは自分の里から異境に行く際に手に持つ、邪霊を祓い清めるための首と同じではないか。

 邪霊というのは、既知から未知に行こうとする際に人間の心に生じるよこしまな思いではないだろうか。いろいろな分別が生まれたりして、心の分裂が生じ、いろいろと心揺らぐ。精神的な不安や恐れもまた、そうだと思う。道具というのは、そうした精神の揺らぎを統一し、人間を未知に向き合わせる力を持つ。だから言葉もまた、本来は、使うことで安心が得られる道具だった筈なのだ。しかし、ノコギリを上手く扱えない時のように、使いこなせない道具は、逆に不安を募らせる。

 スポーツ選手にとっての未知とは、試合だ。結果は戦ってみないとわからないから、彼らにとっては畏るべき未知だ。道具との相性に不安が残るままでは、試合に臨めない。

 それに比べて、機械というのは、もともとの意味が「からくり」だし、世界と正面きって向き合うのではなく、なにか上手い方法で世界を出し抜ければいいなあという感じの姑息なにおいが漂っている。

 道具というのは、使い手を連想させる。その道具の使い手のいろいろな思いとか心構えとかが透けて見える。道具というのは、使う人の世界との付き合い方が現れる。だからこそ、誤魔化しがきかない。それゆえに固有になる。大工道具でも同じ職人が10年使っていたら、世界中に同じものはないというほどになる。その道具は、大工さんと対象世界(この場合は建築物)をつなぐ、その人ならではの紐帯になる。

 言葉もまた、本来は道具だろう。人間と未知なる世界を結ぶ紐帯として。

 しかし、誰かが言っているようなことを言い、上手い方法で世界を出し抜ければいいなあという感じで使う時の言葉は、単語を組み合わせた機械であり、それは「からくり」なのだ。

 芸術だって言葉と同じで、元々は、人間と未知なる対象を結ぶ紐帯としての道具なのだ。未知なる世界に対する厳粛と、祓い清めなのだ。しかし、誰かがやっているようなことをやり、上手い方法で世界を出し抜ければいいなあという感じで作られているアートの多くは、機械であり、「からくり」なのだ。

 世界と向き合うためではなく、自己顕示欲のために言葉を使用したり、アートという「からくり」ばかりを生産しても、その「からくり」は、自分と世界との間をつなぐ紐帯になることができないから、常に不安や疑心暗鬼(邪霊)に苛まれる。心身を統一して、世界を生きていけない。

 芸術も言葉も、本来は、機械ではなく道具なのだ。スピードスケートの選手が氷を捉えて前に進むための、研ぎ澄まされた刃先なのだ。

 その刃先は、使い手次第で、ただの鉄の板になったり、人間の潜在的な力を最大限に発揮させる力となることもできる。

 氷に逆らわず、未知に惑わされず、強かにしなやかに氷を蹴って前に進む。魂をぶつけるように身体のトレーニングを重ね、心を研ぐように道具を整えることによって、一流選手の心身は、どんな逆境でも自ずから然るべき状態で在る。そういう状態に導いていく人間の頭と身体もまた道を具えたものであって、言葉や芸術もまた同じところから生まれたに違いないと私は思う。