畏れと清々しさ

 今日、私の家から自転車で10分ほどの写真家の石元泰博さんの自宅にお伺いする。http://www.fujifilm.co.jp/photographer/2004_03ishimoto/

 現在、準備中の「風の旅人」Vol.20(6月1日発行)と21の打ち合わせのために。

「風の旅人」は、現在発売中のVol.18と次の19で宇宙や生命の摂理という大きなテーマで編集をするが、Vol.20以降は、そうした摂理をどのように実の生活に反映させるかを考えていきたい。石元さんは、1969年に発行された伝説の写真集「シカゴ、シカゴ」で、都市写真家として名声を得てしまい、その範疇で語られることが多いが、御本人は都市写真家のつもりはまったくない。

「風の旅人」のVol.12で石元さんの最新作の渋谷の写真を紹介したが、今回は、石元さんが撮った日本の伝統芸能とか祭りとか農民の写真に感銘を受けて、打ち合わせに行った。石元さんは、その種の写真集を出していないこともあって、石元さんを尊敬している写真家でも、石元さんが、農民とか祭りを撮っていることを知らない人が多い。

 現在、思想家の前田英樹さんが「風の旅人」で書いてくださっている「自然ながら(かんながら)」の世界が、石元さんの農民や伝統芸能の写真の中にある。私は、「自然ながら(かんながら)」ということを、現代にどのように反映させるかを、Vol.20以降に試みたいのだ。

 そのために鍵となるのは、“信仰”だと思っている。“信仰”と言うと、すぐに宗教とかの話しになってしまうけれど、一つの様式として固定してしまった宗教ではなく、例えば、人やモノに対する畏れとか敬意とか恭しさなど、心の軸とか構えの作り方とでも言うべき目に見えにくいものを、改めて意識化していきたいと考えている。

 石元さんは、30年ほど前に祭の写真を撮って、その後は撮る気がなくなったのだが、本来、人間の力の及ばない何ものかに対して人間の行為そのものを捧げるためにあった祭りが、いつしか観客を楽しませるものになり、参加する人の表情などがまるで違っていて、畏れがまるでなくなってしまったのが原因だと仰っていた。

 本来の信仰というのは、神に助けられたり救ってもらうことを目的とするものではなく、畏れ多くも自らの行為を何ものかに捧げることに昇華されていたのではないか。そして、その捧げる行為を通じて幸福になれるということを人間が知っていたことが、とても大事だと思うのだ。

 その幸福感というのは、今日風の物質的に恵まれた豊かさではなく、“畏れ多くも、清々しい気持”を感じることだったのではないかと私は想像する。

 祭に限らず、様々なものから、畏れや清々しさが抜き取られていった。人間の仕事において、畏れや清々しさが尊ばれなくなったことが、一番大きなポイントだろう。

 眼力のある人は恐くて、畏れ多いのだけど、自分の会社の中でもそうだし、取引先の会社などでも、そのような恐い眼力を持っていると実感させられる人と出会うことは、ほとんど皆無だ。

 こちらがハッとさせられるような指摘などほとんどなく、本質とはまるで関係のない議論や調整で仕事をしているつもりになっている人は多いのだけど。

 いつしか人間の仕事の多くは、表面的な調整や、表面的に取り繕うものになっている。ライブドアとかヒューザー東横インだけの問題ではなく、多くの仕事現場で、そうした傾向は日常化している。

 現在は、畏れや清々しさよりも、余興による浮かれ騒きが重視されてしまう。もちろん、この世にはいろいろな側面があるのだが、今日の世情は、あまりにも一方向に偏っているのだ。特にメディアが取り上げるのは、“浮かれ騒ぎ”の方が圧倒的に多い。この前の総選挙やライブドア問題の異常なほどの取り上げ方はその典型だが、あれにかぎらず、メディアは、浮かれ騒ぎを取り上げるのが大好きだし、自らが浮かれ騒ぎつつ、世の中の浮かれ騒ぎを増長する取り上げ方をする。

 浮かれ騒ぎは、娯楽分野だけでなく、マンション問題や幼児殺人事件など、シリアスな問題を伝える場合でも同じだ。そうなってしまう原因は、おそらく、視聴率とか発行部数が関係している。大勢の人間に関心を向けさせる簡単で即効性のある方法が、浮かれ騒ぎを利用し、浮かれ騒ぎを煽り、浮かれ騒ぎに参入することなのだ。

 「浮かれ騒ぎ」と、「簡単で即効性のある方法」は、現代を解くキーワードだと私は思う。

 現代社会のあちらこちらに浮上する歪みに、必ずといっていいほど、この二つが顔を覗かせている。

 メディアを糾弾しても、あまり意味はない。政府もまた同じだ。なぜなら、それらは、自己保存のために既存の価値観や世の中の現象に寄り添うことを宿命としているからだ。メディアや政府は、私たちの深層意識の反映といってもいいのかもしれない。

 キャスターがいくら神妙な顔で何かを語っていても、それを聞いている私たちの耳が痛いことは決して言わない。メディアが行う周到で抜け目のない自己保身は、視聴者心理への媚び方を巧みに洗練させているという認識を持っていなければならないだろう。

 政府がどうのこうの、メディアがどうのこうの、ではなく、この社会を生きていくうえで遭遇する様々な出来事は、最終的に一人一人の価値観や、美意識によって対応される。だから、一人一人が自らの価値観や美意識に責任を持つしかない。そうした腹の括り方が大事なのだ。

 自らの幸福は、自らの価値観や美意識によって定まる。自分にとって幸福や価値観や美意識がどういうものか考えることなく、自分の人生を生きているという実感も乏しくなるだろう。

 幸福や価値観や美意識は、人と比較するものではなく、かといって自分に問うだけでもわからない。それらは、私たちの生命そのものを司る大きな力との関わりのなかではじめて意識できるものだと思う。神や仏などを信じないにしても、私たちがなぜこの場にこうして生きているのかという根本的な問いは残るわけで、その問いに安易な答えを与えて安心してしまうのではなく、その問いの向こう側にある決して解明されない厳粛な掟に対して、自らの生き様を晒して示していくこと。

 すなわちそれは、天の掟の前に、この世の全ての生命と自らを等しくさせて一つの生を生き遂げていくことであって、昔の人が言った、「お天道様に恥ずかしくない生き方」とはそういうことではないか。そして、お天道様に恥ずかしくないという思いこそが、畏れ多くも清々しい心、という幸福感につながっていく。そういう人生の感覚は、科学的合理性では決して計れず、実証できない性質のものであり、心身で体得する以外に道はないだろう。

 信仰というのは、本来そういうものだと思うのだが、今日の社会は、それとはまったく逆向きのベクトルによって推進されている。

 しかし、その社会は、一人一人の人間で構成されているわけだから、一人一人のベクトルが変わらないかぎり、社会も変わることはないのだろう。