作者不詳と超一流

 東京美術倶楽部(愛宕)で今日から開催されている「大いなる遺産 美の伝統展」を見に行く。美術商たちが得意分野の鑑識眼と人脈を駆使して集めた「国宝を中心とする古美術の名品」とのふれこみだが、私は、新聞に掲載されていた北宋時代の白磁と、横山大観の「或る日の太平洋」に惹かれて見に行った。

 日本画、洋画、陶器など莫大な数の名品が展示されていたが、そのなかで一番感銘を受けたのが、17世紀に作られた、「波濤図屏風」と「曾我物語図屏風」で、ともに作者不詳の作品だった。この二つに比べると、他の有名作家の作品は、技巧的でチマチマしているように見える。波濤図の方は、大小さまざまな渦と波のダイナミックな動きが、海とか川といった概念を超えて、宇宙のリズムそのものとして表されており、曾我物語は、武士たちの狩りのシーンと、武家屋敷周辺のシーンが二つでセットになっているのだが、一方は、人間界と自然界のせめぎ合いが激しく描かれ、もう一方は町中に生きる人間の様々な局面が緻密に描かれているのだが、両方を合わせて、この宇宙における人間の位置づけを冷徹に俯瞰しているように感じられる。波濤図も曾我物語も、ともに超越的な感性でモノゴトを看破しており、並の作者ではないことがわかる。それに比べて、これ以外の屏風図は、たとえ名の通った作者のものではあっても、水墨画の約束事をきちんと守りながら事物を上手に描いているという感じで、スケールや深さをあまり感じない。

 少し前に見た白州正子さんの「かくれ里」の映像のなかで、白州さんが近江周辺に隠された名品を訪ねるのだが、お面とか彫刻とか、作者不詳の作品が紹介され、それらの底深い魅力に惹きつけられた。ナレーションでは、その土地に生きた人間の純粋な「信仰」が形に昇華されたから、あのようなユニークな美が生まれたという説明があったように記憶するが、それも理由の一つだろうと思ったものの、あれらの作品は土着感覚を超えて、力強さに洗練さや優美さを兼ね備えた普遍の域に達し、ただものでないという感じが否めず、もしかしたら、超一流の作者のものではないかと、映像を見ながら思ったのだ。

 作者の名が記された作品というのは、実は一流や二流止まりであり、超一流は、自らの名を記することすら馬鹿馬鹿しくて、それゆえに作者不詳になったのではないかと思った。

 作者不詳の超一流の作品は、上手いか下手かという境地を超えて、リアルそのものである。そのように描かれるべきことを、そのように描いているだけ、という感じで、見る側に上手いか下手かという分別を与えない。

 上手いとか下手かというのは、自分たちと同じ人間のなかでの比較という感じだが、超越的な作品は、比較の余地すらないのだ。

 作者不詳の傑作は、どれも超越的で濁りがない。現実の表層的描写ではなく、深遠な問いが投げられているような感じを受けるが、だからといって重々しくなく、極めて清々しい印象を受ける。

 おそらく優れて達観した境地がそこにあることは間違いない。

 昨日書いたように、「信仰」を、「畏れ多くも自らの行為を何ものかに捧げること」と定義すれば、信仰に裏打ちされた超一流の芸は、必然的に、無名とならざるを得ない。

 今日的な基準で、有名だから一流、無名だから二流などと解釈をしてしまうと、とても大事なことを見落としてしまう。