真のエリート教育!?

 日曜の夜、テレビで、開成とか灘など難関中学への進学率が非常に高い塾を紹介していた。その学長が、スポーツなどと等しく勉強でも英才教育を行い、将来の日本をしょって立つ「真のエリート」を育てるのだと息巻いていた。

 しかし現代社会のなかで、「真のエリート」というのがどういう人たちなのか、私にはピンとこない。あの学長や、こうした塾に子供を通わせる両親に、その具体的なイメージがあるのだろうか。

 有名中学に入って東大とか京大を目指す、というあたりは、それがいいかどうかは別にして、具体的な目標があることはわかる。でも、その後はどうなのだろう。

 官僚や政治家になることが真のエリートなのか、お医者さんや弁護士か、経営者か一流企業のビジネスマンか、それとも学者や芸術家なのか?

 MBAなどを取得して運良く雇われ経営者になる人は別として、自分で新しく会社を興す人は、私が知る限り、子供の頃、英才教育を受けていたという話しはあまり聞かない。ほとんどが子供の頃から一癖も二癖もある人たちだ。

 学者や芸術家の場合も、オリジナリティのある仕事をしていて私の尊敬する人たちも、子供の頃、塾漬けになっていたという話しを聞かない。子供の頃の遊びについて楽しそうに話すけれど・・・。

 そうすると、官僚、政治家、医者、弁護士、大企業のビジネスマンあたりが、進学塾から一流中学を経て到達する「真のエリート」ということなのだろうか。

 「真のエリート」などという言い方は、抽象的で何か高邁なもののような錯覚を与えるが、具体的に、どういう質の仕事をしたいかが、大事なのではないだろうか。

 もちろん、子供の頃は、具体的な職業に対するイメージなど持てないのだから、とりあえず、つぶしがきくように、一流中学から一流大学に入って損はないだろうという発想が教育ママパパにはあるのだと思うが、そのプロセスを盲目的に踏むことで逆に失うものがあるかもしれないということが、まるで想定されていない。

 とにかく、その種の進学勉強を一生懸命にしていれば脳が成長して賢くなると考えているのだろうが、本当にそうなのか私は疑問を感じる。

 進学勉強によって一つのパターンやパラダイムに即した思考や記憶能力は発達するかもしれないが、世の中には様々なパターンがあるし、子供達が大人になる時にはパラダイムも変容している可能性がある。それゆえ、どのような環境変化にも対応できる柔軟な脳の発展の仕方が必要だろう。そうでなければ、自分に植え付けられているパターンで理解できないものに直面すると、精神的にとても不安定になってしまったり、自分に閉じこもってしまう人になってしまうのではないだろうか。

 猛烈な進学塾の隆盛は、少子化によって子供を大切にしすぎるあまり、その子供に何不自由のない教育環境を与えようとする親心が反映したものだとも言われる。

 しかし、古い言い方だけど、人生というのは山あり谷ありだから、最終的に、心身ともにタフであることの方が大事なことのような気がする。心身ともタフに育つためには、様々に異なる環境パターンに晒されていることが一番ではないかと思ったりする。

 話は突然変わるけれど、先の送迎殺害事件の中国人女性は、最初の報道では、日本語がつたなく地域社会に溶け込めないと報道されたが、実際は、日本語、中国語、英語、韓国語に堪能で、中国では才女だったと聞く。それだけの教養を身につけたのだから、ある程度、恵まれた少女時代を過ごしたのだろう。もしくは、一人っ子政策によって、両親が期待をかけて育てたのかもしれない。

 そして綺麗で才能もある彼女が、結婚斡旋業者の紹介で日本人と結婚したらしいが、彼女を迎え入れた日本人家族は喜んで、彼女を温かく迎え入れたと言う。地域住民との関係も悪くなかったらしい。それを本人がどのように受け止めていたかはわからない。願望や期待が強すぎると、周りが普通に接していても、物足りなくて不満を感じる可能性はある。

 そして、現在、中国では、日本人が裕福だというイメージが強く、日本への嫁入りを望む人(特にその両親)が多いとも言う。

 はっきり言って、現在の中国なら、才能があれば、中国にとどまってビジネスを始めたり、中国のビジネスエリートと結婚した方が、金銭的には豊かになるだろう。

 日本人全般が豊かだというのは彼女たちの幻想だ。日本人は、家を買ったら、一生、ローンで縛られるし、物価も高い。教育費だって高い。子供ができたら、自分の望むことの大半を我慢して生きていかなければならない。異国の人は、日本のそうした事情をどれだけ知って覚悟して来ているのか。それでも日本は他国よりも比較的豊かなのかもしれないが、豊かだと期待しすぎていると、現実に直面した時に落胆も大きい。

 たとえそうした事情があるにしても、結婚や仕事などで、自分の中から自然に湧き出る情熱で行っていれば、どんな苦労でも前向きに捉えることができる。しかし、世の中をうまく渡るためとか、金銭メリットだけや、世間体とか、表面的なことや処世的な打算が動機になっている場合は、自分の都合のいいようにモノゴトが動かないと、いったい何のためにこれまで苦労をしたのだと憤慨し、自分が壊れていきやしないか。

 自分がうまくいかないのは自分に原因があるのだと考えず、環境のせいにしてしまわないか。環境のせいにばかりして自分を改めないものだから、ますます、モノゴトがうまくいかなくなるのではないか。

 もちろん、今回の送迎殺害事件は、私たちに知ることのできない複雑な背景があるだろうから、一つの側面から語ることは控えなければならない。

 しかし、私は、中国人か日本人かという区別よりも、今日の日本でも中国でもそうだが、教育や自然環境など子供を取り巻く環境に懸念を覚えている。

 西洋的近代合理主義の浸透によって、合理とか実利が重んじられるようになった。しかし、ヨーロッパなどは相変わらず階級社会が残っていて、それがゆえに、一般の人々は、エリートはエリートの役割を果たせばいい、自分は自分で人生を楽しむと割り切っている。また、もともと個人の主体性を重んじる風潮もあるから、他人を見て焦って自分を見失うことも少ない。そうした社会体制や伝統がブレーキになっている。しかし、実利と合理と競争の社会になって、かつ個人の主体性が育まれていないと、多くの親が、社会で自分の子供が優位になるようにと奔走してしまう。もちろん、子供が可愛いいからそうなるのだが、あまり目先のことにかまけていると、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 いずれにしろ、主体性の欠けた合理と実利と競争のなかで、結果として、日本人や中国人は子供を大事にし過ぎて、それがゆえに、子供の生きていく力が弱くなっていく。

 現代社会はストレス社会などとよく言われるが、ストレスのなかった時代なんて存在しないわけで、現代は、ストレスに対する人間の耐性が低下して、心が壊れやすい社会になっているというのが本当ではないだろうか。

 文部省の方針が、「ゆとり」から「言葉の力」?か何かそんなものになった。

 いわゆるエリートの人たちが頭でっかちに作りあげる方針と、その変更に追随することの馬鹿らしさに気付いた人たちが、「真のエリート教育」を掲げて一生懸命になっている。 私は、子供の心が柔軟にタフになる教育とはどんなものかを考えるが、よくわからない。考えてもわからないからといって、文部省や教育評論家や学者などのエリート?や、テレビで見た猛烈塾長の話など全く信用する気になれない。だから自分の直観で子供と接していくしかない。ならば、自分の直観が重要な役割を果たすということになるから、自分の直観がおかしなことにならないように、自分づくりを心がけることが一番大事だということになる。

 子供に期待をかけるばかりで親が自分のことを何もしなくなると、自分の直観が知らず知らず狂ってしまう。もしくは自信が持てなくなる。そうすると、あの塾長をはじめとする様々な分野の押しの強いセールストークに引きずり込まれてしまうのかもしれない。

 ということを誰かに意見するのではなく、自分に言い聞かせながら、自分でいろいろ考えなくてはならないと思った。