日本の美と醜(和敬清寂)

 昨日、八木清作品展、「エスキモーとアリュートの肖像」2006年 2月15日(水)〜3月31日(金)を見に行く。

 八木さんのオリジナのプラチナプリントは何度も見ていて眼に焼きついているので、わざわざ見に行く必要はないだろうと思っていたのだが、きっちりと額装されてライトアップされたエスキモーのプラチナプリントを見て、その素晴らしさに感動した。

 全ての作品が、8X10インチの大型カメラで撮影したプラチナ・パラジウムプリントの密着焼きだ。「このプリントは、通常用いられる銀塩とは異なり、その名の通りプラチナとパラジウムで画像が形成されています。プラチナとパラジウムは非常に安定した物質であるために長期保管に優れ、また、銀とは異なる独特な風合いが特徴です。」(八木清談)

 そのプラチナプリントは、編集室の蛍光灯の下で見ると、通常のプリントに比べて色が沈むので、くすみがちに見える。独特の風合いはあるものの、その風合いに負けてしまって、ディティールのきめ細かさが生きてこない。その独特の感覚を印刷で再現することは甚だ難しいが、「風の旅人」では、奇跡的なクオリティに仕上がった。(自己満足ではなく、八木さんもそう言っていた。)

 風の旅人での掲載内容→ (下記のアドレスの中で、一番下に入っているセピア調の写真)

 http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/3/3_1.html

 http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/4/4_1.html

 http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/14/image1.html

 むしろ、「風の旅人」での印刷の方が、紙質の風合いがなくなるゆえに、その反作用としてディティールが生きてきて、オリジナルプリントのくすみがちな印象が消えて、ぱっと見たところは、印刷の方がいいのではないかと思ったくらいだ。

 

 しかし、昨日、展覧会で見たものは、プラチナプリントの素晴らしさが最大限に発揮されているという感じだった。

 通常のプリントでも額装し、ライティングして展示するのだが、ほとんどのケースにおいて、光沢が気になる。裸で直に見た方がよかったということが多い。

 それに比べて、八木さんのプラチナプリントは、元々、プリント紙に反射性がまったくないので、ライティングをしても変な具合に照らない。写真に当てられた光は、写真のディティールだけを鮮明に浮かびあがらせる。8×10の超大型フィルムで撮影した特長が最大限に引き出されているのだ。

 もともと、写しだされた人物や自然風景や道具などは素晴らしかった。だからこそ、「風の旅人」で三度も掲載した。彼の写真は、私がもっとも好きな類の写真の一つだ。あれらの写真が大型本の写真集で発表されると、かなり凄いだろう。

 もし、先日の杉本博司展の写真のように、巨大に引き伸ばされて展示されれば、圧倒的な迫力となることは間違いない。杉本博司氏の作品の横に同じ大きさで展示すると、杉本氏の作品の浅はかさがあからさまになるだろう。

 しかし一方は、アートシーンで華々しくもてはやされ、もう一方は、まだ無名の貧しい写真家である。

 美術商の思惑などが複雑に入り交じり、小心で虚栄心の強い評論家が意図的に便乗したり利用されたりしながら、どうでもいいような表現物の評価が吊り上げられ、さらに浮かれたメディアが、その風潮に浅ましく迎合する。そのようにして、ブランドが作られ、ブランド品ということだけで、広く一般に崇拝されるようになる。

 そういう嘘っぽいゲームは、それを望むもの同士がかってに話しを合わせながらやっていればいいこと。

 当たり前のことだが、世間が評価するものがいいものとは限らない。そこには何らかの仕掛けがあるからだ。そういうものに騙されず、自分の目で見て、自分がどう感じるかを正直に受け止めること。今日の社会において、本当に良いモノは、莫大な夾雑物によって見えにくくなっていて、それに触れる機会が少ないと、良いモノの基準がわからなくなる。だから、それなりのものにすぎなくても、世間の評価が良いのだから良いモノなのだろうなと思っている人は多い。

 でも本当に良いモノは、たとえば自分の部屋の自分の机の前に飾っていて、毎日見ても飽きず、いろいろ発見があり、しみじみと良いなあと思えるものなのだ。

 八木清という人は、昔気質の職人のような男だ。無骨で不器用である。

 そんな彼の作品を見ると、私は、千利休が残した「和敬清寂」という言葉をイメージする。

 和・・世界を構成する要素が互いに響き合って、それぞれの持ち分を引き出すこと。

 敬・・敬虔、尊敬、モノゴトに対する畏れ多さ。

 清・・清々しさ

 寂・・寂静の思い。高い見識に裏打ちされた、虚飾のない明白な表現

 芸術のための芸術ではない。鑑賞を目的とすることがあっても、それは派生的なものにすぎない。素材の性質を知り尽くし、表現の対象を知り尽くし、それを最大限に生かすことを考え、人為で作るというおこがましさを意識し、自らの至らなさで、そのものを損なってはいけないと畏まりながら、誠実につくること。

 そうした職人魂から生まれてくる美しさは、鑑賞用のものというより、我々の営みに根ざしたところから感じる美しさである。そういうものこそ、今日の社会に必要な本物だと思う。

 八木木清のプラチナプリントは、そうした数少ない本物の輝きがある。