桜と日本人

 昨日は晴れ上がって光が満ち、家の桜も満開。今日は、薄曇りで風があって、この部屋の窓から見える桜の木がユラユラとうねっている。山桜の薄いピンクは、鈍色の空に溶け込むようで、あはれな風情がある。

 昨日は家で花見をしたが、昼間から大勢でワインを飲んで、ほろよい加減で見る場合は、眩しいくらいの光の方が桜をゴージャスに楽しめるが、一人の場合は、今日のように薄暗い空の方が、桜が奥ゆかしく、綺麗に見える。

 一年に一度、一瞬だけ巡ってくる桜の季節によって、私たちは、日頃忘れている自分のなかの美しい感覚を思い出すことができる。

 未練や憂いよりも、今一瞬の映え映えしさを大事にする潔さ。風の吹かれて散りゆく桜を見ながら、常ならぬ我が世の摂理を知り、それを清々しい気持で受け止める気にもなれる。

 民主党の永田議員は最後の最後まで醜態を晒していた。

 何か狭いところに閉じこもってしまうと、あのような未練がましい態度が恥かしいと自分でわからなくなってしまうものなのだろうか。

 永田議員は、いわゆる秀才で、有名進学校、東大、大蔵省、UCLAでMBA(経営学修士)取得、政治家と、典型的なエリートコースと言われる道を歩いてきた人だ。

 小学校から塾漬けの生活を送る子供たちが目指している道の一つを順調に歩んできた人で、学校のお勉強はとてもできるという人なのだろう。

 そんな人が偽メールに簡単に騙されてしまうというセンスの悪さは、政治家として信頼できる器ではないことを端的に示しているが、それだけならまだ可愛いものだと思う。

 私が問題だと思うのは、見ている方が恥ずかしくなるほどの自己保身や自己顕示欲、他者依存や責任転嫁を平然と行えてしまえることだ。なにゆえにそこまで子供じみた醜態を晒せてしまえるのか、不思議でならない。 

 つまり、学校のお勉強ばかりしていると、既存の知識は身に付くが、勘が働かなくなる。だから、人生の大事な節目で、あっけないほど簡単に人に騙されてしまう。さらに悪いことに、騙されても、自分の勘の悪さを反省するのではなく、自己正当化する。勘というのは、生きていくうえでとても大事な能力だ。にもかかわらず、今日の実証的科学万能の知識偏重社会では、あまり高い位置を与えられておらず、宝クジに当たる運のような扱いを受けているため、勘が悪くても、自分の能力と関係ないと思われているのだ。

 そして、永田議員は勘が悪いものだから、空気が読めない。どういう一手が名誉挽回につながるか全くわからず、逆の手ばかり打っていく。

 勘が鈍いと、自己保身、自己顕示欲、他者依存、責任転嫁の態度を平気で出せてしまう。そして、その逆もしかり。勘を悪くするのは、極度の自己保身や他者依存なのだ。

 だからもし、現代社会の教育の勝利者が勘が悪くなるような特徴を持っているとすれば、その教育は、自己保身、自己顕示欲、他者依存、責任転嫁を強める性質も持っているということになる。

 そしてその教育の勝利者が、社会的影響の大きい仕事を担っていく。なんとも最悪の展開だなあと思う。   

 もちろん、永田議員だけを取り上げて決めつけるのはよくないことはわかっている。

 ただ、私が気にしているのは、今日の教育システムが、“人間の生き様”とか、“美意識”というものを、あまりにもないがしろにしているのではないかということだ。

 多くのインテリは、生き様や、美意識に言及する際、「いろいろあることがいいことだ」と、物わかりの良さそうな大人を演じ、分別くさい無難な見解でお茶を濁し、大事なところを避けて通っているような気がする。

 いろいろあることはわかっているのだが、例えば桜を見る時に多くの日本人が感じるような、共通の美意識や生と死に関するイメージのなかに、何か大切な智恵が宿っているかもしれない。そして、この社会で私たちが健やかに生きていくために、またこの社会全体の共通の未来のために、その智恵が大きな役割を果たす可能性があるかもしれない。

 日本人に生まれてきてよかったなあなどと思える瞬間は、そうざらにはないが、そう思える希有な瞬間だけでも、私たちの中に秘められた美意識や、この国の未来を、しみじみと思うことがあってもいいだろうし、子供達の教育のなかでも、そうした時間は必要なのではないかと思う。