政治と人間の品格

 今朝、朝食を食べている時にテレビをつけたら、民主党の女性議員が五人ほど、派手なスーツに身を包み、キイキイとムキになって「国民のために、政権交代が必要なんです」と、大きな声で主張していた。

 何か、訪問販売とか、サロンのようなところで粗悪品を売る人を連想させるような喋り方で、人としての品格をまるで感じられなかった。

 彼女たちは、民主党の党首として小沢一郎氏を支持すると主張する。その理由として、「自民党の弱みや強いところを知り尽くしているから」などと言う。バカじゃないか。さらに付け加えて、「政治の世界は海千山千の人たちばかりだから、そうした経験豊富な人でなければならない」と言う。つまり、権謀術数に長けた人こそ民主党の党首に相応しいのだと、平気で言えてしまう感性の鈍さ。彼女たちは、あまりにも大雑把にモノゴトを考える癖がつきすぎて、神経が鈍磨して、人としての機微がわからなくなっている。

 粗悪品を売るセールスマンとか、いかがわしい宗教勧誘も、心の機微よりも自信満々の押しの強さの方が有効だと聞くが、まさにそんな印象を受けてしまうのだ。

 彼女たちは大雑把な言葉で「政権交代こそ日本の明るい未来」などとのたまうが、政権交代しても何も良くならないことが、伝わってきてしまう。

 政治家が問題というより、あのようなタイプの人たちを政治家として選んでしまう民意が問題なのかもしれない。もしくは、選挙カーでがなり立てるだけの選挙戦だから、ともかく声が大きくて鈍感ゆえの自信満々の方が、立派に見えてしまうところに問題があるのかもしれない。それ以前の問題として、今日の社会で政治家に立候補するような人は、あのようなタイプしかおらず、その中での限られた選択で、こうなってしまうのかもしれない。

 ピンクやイエローのスーツに身を包んだおばさん達が、キイキイ主張したり、学校のお勉強だけできて経歴と肩書きで箔を付けるだけの人が自己保身的な醜態を晒す世界が、今日の政治なのだろうか。

 国家の品格という本がベストセラーになっている。確かに、今日の社会で、「品格」ということについて、もう少し冷静に真剣に考えなければならないと私も思う。

 しかし、「国家の品格」と、敢えて「国家」という言い方をするところに、私は狡さを感じる。大事なことは、一人一人の人間の品格であるはずだけど、「国家の・・・」と言ってしまうと、書く方も読む方も、何か自分事でなくなるのだ。すなわち、教育が悪い、政治家が悪い、社会が悪い、という感じで、品格ある国家にするために、しかるべき人がしかるべき努力をしなさいよ、という傍観者的な視点にすり替えられてしまうのではないか。

 「国家の品格」という本は、そのように傍観者的な視点にずらせることによって、書く方の楽な気分が読む方の楽な気分を誘発して無責任に読めるからこそ成功しているのではないか。

 「国家の品格」ではなく、「一人一人の品格」というアプローチだと、反感を買いやすいから、楽には書けない。しかし、政治にしろ何にしろ、一人一人の品格の集まりが形になったものであるからして、考えるべきは、「国家」ではなく、「私」の品格なのだ。

 「私の品格」の集まりが政治に対する民意を形成する。

 しかし、「私の品格」について、ハウツーものを書く人はいるが、自分をえぐるような視点で新書を書く人はいないし、仮にあったとしても売れない。そのあたりに根の深い問題があるのだろうと、これまた人ごとのように言っても、何にもならないのだろうな。