人の幸福と「美」と・・・

 今朝、雨上がりの道を歩いていると、庭の手入れをしているお婆さんがいて、その光景がとても美しく見えた。庭といっても小さなもので、雑草も生い茂っているし、家もまた古く小さなもので、取り立てて言うほどのことではないかもしれないが、しみじみとした光景がとても印象に残った。

 人の幸福とは・・・などと大仰に言うことでもないのだが、何故かそういうことをモヤモヤと考えながら、駅までの道を歩いた。

 人が幸福を感じられる一つの局面は、美しいものに触れている時だろう。

 本人が意識しようがしまいが、心が満たされている時というのは、何かしら美しいものに触れているのではないかと思う。

 もちろん、何を美しく感じるかは人それぞれで、見た目の美しさや、振るまいの美しさや、それらの組み合わせや、美しさの有り様も千差万別だ。

 この世に、美しいものは無限にある。そして、美しいものに触れている時に心が満たされるとすれば、その心の状態を掻き乱すものが、醜いものということになるのかもしれない。何を醜いと感じるかも人それぞれで、醜さの有り様も千差万別だ。

 そういうことをぼんやり考えていると、なぜか、私はどういう思いで「風の旅人」を作っているのだろうという自問自答につながっていった。

 私は、おそらく自分の中から生じる声に従って、自分にとって美しいものを現前させようとしている。

 おそらくどんな人であっても、その行為は、「美」と関連しているのではないかと思う。ファッションであれ、化粧であれ、ダイエットであれ、装飾品であれ、自動車のデザインであれ、庭の手入れであれ、振るまいや生き様(死に様も)にしても、何を大事にするかの違いはあれど、その人の美意識が反映している。

 振るまいや生き様に美意識が反映するのは、「美しさ」と幸福な感覚がどこかでつながっているという気持ちが、意識のどこかにあるのだろう。

 そして、「美しさ」への思いに付け込むことが、今日のビジネスの常套手段のような傾向がある。だから、昨今では、歩き方教室もあれば、セレブ教室もある。身体の内側を綺麗にするという謳い文句の習い事や食品も流行っている。

 そこにニーズがあるから、商品やサービスが提供される。資本主義社会というのは、そういう原理原則の上に成り立っているから、今日の有り様は、いわば必然のものだ。だから古の経済学者は、この需要と供給の関係を、神の手と表現したのだろう。

 何を美とみなし、幸福を感じるか? は人それぞれで構わないと表向きは言いながら、本当に、人それぞれで構わないという仕組みになっているのかという疑問が、常に私の中にある。

 自分の心の中から自然と湧き上がる気持ちとして、美しく感じること。それは人それぞれで構わない筈なのだが、他人にそれを否定される以前に、自分自身でその気持ちを打ち消して行動に至るということが多いのではないか。現実がこうだから仕方がないと自分を諦めさせて。

 そして、その結果として、世間で流通している美の基準に自分を当てはめて、やり過ごしていることが多いのではないか。

 世間で流通している美の基準というのは、多くの人が支持しているものだから間違いないもののように錯覚することがある。しかし、実はそこには様々な仕掛けと矛盾がある。

 まず、異なる感覚を持つ多くの人々に共有させるためには、ある種のパターン化が必要になる。パターン化というのは、微妙な機微を省略すること。機微はデリカシーを育み、美に対する感度を高めるが、その機微が省略されたものばかりに接していると、モノゴトの綾がわからなくなり、ますますパターン化されたものを追い求めることになる。

 それで幸福を感じることができれば問題はない。

 しかし、そうした簡明なパターン化が通用するのは商品経済や科学のお勉強のなかだけの現象で、実際の世界は、もっと複雑なものなのだ。自然界はもちろんのこと、生身の人間社会でもそうだ。例えば会社組織の中で、人と人が付き合ったり折衝したり、微妙にバランスを保ちながら共存していくこと。生身の人間の感情や行動は、簡明なパターンで分析できるようなものではない。微妙に複雑で、こちらが予期せぬことの連続であり、その曖昧さを面白く感じられるかどうかによって、その人の幸福感は大きく違ってくる。

 しかし、商品経済の側に立つ仕掛け人は、そうした真実を人々に気づかせないことで、自分たちの保身を成り立たせている。今日の世界では、商品経済と科学技術が、絶妙なタッグを組んでいる。次々と簡明なパターン(公式)を作り、それを実現する商品を技術的に実現(証明)して社会に送り込んで、その枠のなかで生きることが幸福であるようなイメージで覆い、人々の感覚を麻痺させることをマーケティング上の戦略としている。

 つまりそれは、「美」を賞讃し、「美」を提供しているように錯覚させて、実のところ、「人それぞれで構わない筈の美」に、知らず知らず制約を加えていることでもあるのだ。

 この現象は商品経済に限らない。アートと呼ばれる行為もまた、多くはそこに吸収されている。今日の商品経済と科学とアートの多くは、おそらく同じ思考特性の産物なのだ。

 といって、そうした状況に反発し、「人それぞれで構わない筈の美」・・・ということで、キャンバスにペンキを塗りたぐるようなアヴァンギャルドな作風を試みても、その作品は、「人それぞれで構わない筈の美」を伝えることにならず、「その人の美」を伝えることにしかならず、「新しい美の発見」などと、スーパーのチラシや、マンション広告のようなコピーで紹介されるはめになる。

 科学の世界の伝え方も、「超新星発見!!」「未知なる惑星が存在する!!」などと、やはり似たような扱いになる。

 表現行為というのは、どこかで普遍的な意味が見出されることを期待されている。普遍性を安易に求めてパターン化を行うと、大切なものを縮減してしまう。かといって、「自分にしかわからない感覚」を、自己完結的にアピールしたところで、他者と共有できるものにならない。

 表現された「人それぞれで構わない筈の美」の感覚が他者の心に流れ込んで、その他者もまた、自分の心の中から湧きあがるような感覚で自分の「美」を見出し、世の中が押しつけてくるパターンを冷静な目で眺め、自分の深いところに関わってくる曖昧で繊細な「美」や、その感覚を損なう「醜」に心が揺らぎ、その都度、自分というもののリアリティを確認しつつ生きていくこと。

 人と世界との間にそのような対話が成り立つ可能性があるのかどうか? それを探る軌跡をたまたま形にしているのが、私にとって「風の旅人」なのかもしれない。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 とはいっても、今日の商品経済万能の時代のなかで「人それぞれで構わない筈の美」にこだわって生きて存続していくためには、それなりの工夫と努力が必要になるのだけど。