匿名性で歪められること

 大新聞の中で、「殺された少女の友人は、・・・・・・と語っている」と書かれる。

 こういう形で記事にされた・・・・・・・という言葉を発したその友人の顔の表情とか、声のトーンはまるでわからない。そして、その言葉を引きだした記者の質問の仕方とか、引用された言葉以外の言葉がその友人から発せられたのかもしれないが、どの部分が割愛されたかもわからない。その割愛を行う記者は匿名のため、インタビューの時に、どのような基準でモノゴトを判断する人なのか、まるで見当がつかない。そのようにして言葉だけが一人歩きをする。

 同じ場面に遭遇しても、人それぞれで受け止め方が違ってしまう。その人の性格とか、自己意識の強弱とか、コンプレックスとか、個人的な欲求不満とか妬みとか、様々な要因によって、判断は異なってくる。それぞれ異なって当たり前で、その記事が実名で書かれたものであれば、その記事は、多くの人間の感じ方の一つのケースとして受け止めることができる

 評論家などが、何かを攻撃的に批評する場合でも、その評論家が実名であったり顔表情などがわかれば、その意見は、その人固有のものであることが伝わるし、反論があれば、その人に向けて言葉を発する余地が残されている。

 しかし、もし匿名で書かれていたら、その人が、自己中心的で狭小な物の見方しかできない場合でも、顔の表情などが全く分からないため、平均的一般論のような厚顔さで伝えられる。匿名で記事を書く側は、そうした匿名性がもっている得体の知れない不気味さの効果を狙っているのだろう。

 「国民は怒っている!!」というような言い方もそうだ。具体的に誰がどのように怒っているのかさっぱりわからないが、何かしら怒りの気分だけが伝えられてしまう。

 タレントなどに関する記事でも、かつてその人と仕事とかプライベートで関係があった人が現れて、例えば仕事上やプライベートのことで酷い仕打ちを受けたという暴露話をすることがよくある。しかし、実際はその暴露者の方に多大な問題があって、それで縁を切られたのに、それを逆恨みして、匿名の仮面を被って告発をするケースも多いだろう。その告発だけが記事になって取り上げられると、匿名で告発する人間の人間性は問題にされず、告発される人ばかりが悪者になってしまう。

 どんな個人や組織でも、それに関わる人の何パーセントかは不満を持っているのが当たり前で、全ての人が、その人物や組織を誉めるというのは、宗教的洗脳やゴマカシがあるケースが多い。誰にでも好かれる人というのは、誰にでも当たり障りのない対応をしたり、おもねたりして、背後で狡いことを考えていたりする。真剣にモノゴトに取り組んでいれば、多少の敵がいたり、妬まれたり、煙たがれることの方が普通なのだ。

 よくマスコミの言論では、少人数でも批判する人がいることが問題で、その少数の意見を大事にしなければならないなどと説かれるが、個人や組織に本当に問題があるかどうかは、少人数の告発者の意見ではなく、あくまでも、全体としての傾向がどうなっているかということと、どういう質の人が批判しているかを知ることの方が大事だろう。形となった批判そのものより、批判している人がどういう質の人なのかを考慮に入れるべきなのだ。

 有名人が無名の頃に関係した人間が突然現れて暴露するケースは金目当てが多いし、自分の所属する組織を陰で非難する人は、その組織で周りからまったく信頼されていない人間であることの方が多い。

 健全であろうと志すものに対しては、歪んだものが反感を持ち、歪んだものに対しては、健全であろうと志すものが反感を覚えることが多い。

 どちらが健全で、どちらが歪んでいるかは、記事になった言葉だけを見ても判断はできない。言葉の背後にある、その人の全体像を通してしか判断ができない。その全体像を見られたら困るという人が、匿名性に隠れていると考えた方が自然なことで、そうした卑怯なスタンスそのものが既に歪んでいることになる。

 酒場で上司の悪口を言うのは企業社会でよくあるケースだろうが、悪口される人の方が有能で、隠れたところで人の悪口を言っている方がひがんでいることが多い。

 誰しも、働きながら自分の能力をアップさせたいと考えるのが自然で、陰で人の悪口しか言えない人間を上司に持ったり、同じチームだったりすることほど不幸なことはないだろう。知らず知らず自分も卑屈に歪んでしまうようで、情けない思いになってしまう。

 おそらく、人は誰しも生理的にその種の卑屈さに辟易するようなところがある。もしそうならなくなっているとしたら、その卑屈さに染まって、相当に歪んでしまっているということだろう。

 しかし、その種の歪みもまた人間の性であって、わびしいけれど仕方ないこと。問題なのは、歪みに至る言うに言われぬ機微が根こそぎ殺ぎ落とされて、その人が匿名の中で発する言葉が、一人歩きしていくことなのだ。

 週刊誌や新聞社で働く記者に、そうした歪みがいっさいないと言い切れないし、それを全て無くす必要もない。ただ、記事を書いたりインタビューをする人がいったいどういう人なのか、発行元は、もう少しわかるようにしてもいいのではないかと私は思う。

 最近、朝日新聞の社会面では、何か事件があるたびに、冒頭のように「・・・・と友人のAさんが語っている」式の記事が多く、こうした記事は、「記者の見解をできるだけ入れずに、客観的中立立場で、人が語っていることをそのまま掲載しているだけですよ」という態度を露骨に示している分だけ、たちが悪い。

「情報操作はせずに客観的中立立場で人が言っていることをそのまま伝えているだけですよ」と、匿名の立場で、自分の都合のよいところだけ切り取って発信するのは、実は、もっとも卑怯な情報操作ではないかと思う。

 この方法で、世論を操作できるかどうかはわからないが、注意は必要だろう。

 人間の悪徳は、誰しも簡単にわかるようなパターンで行われるものではない。それは60年前も今も同じ。「風の旅人」の6月号で、戦前の東京の写真を掲載するが、いろいろと写真を選んでいる時、写真の選び方と編集の仕方によって、戦前の空気をどのようにも操作して表現できることがよくわかった。私は、私の意図をもって、戦前の空気を誌面で表してみた。そこで表現されたものが戦前の全てではなく、あくまでも私というバイアスによって、殺ぎ落とされたものも多くある。

 世界の全てを伝えるありのままの表現形などない。できることは、その表現を行う者の価値観が、どういう感じ方や考え方に基づいて築かれているかをできるだけ正確に示そうと試行錯誤することだけで、その軌跡そのものが「表現」であり、言葉や映像として現れた形は、二次的なものではないかと思う。

 匿名性は、酒場での愚痴のように、ある種のガス抜きで存在することは必要だと思う。

 しかし、最近では、インターネットの掲示板などに、消費者の声を装って、自社製品の誉め称える記事を書き込んだり、競争相手を中傷する記事を書き込むといった行為が、それとはわからない方法でマーケティング的に行われているとも聞く。

 匿名性に隠れて情報操作することが意図的に行われるようになっていく先に、不吉なものを感じる。

 悪意の匿名記事を防ぐことはできないだろうから、匿名記事(そのなかには、チラシや広告の扇動的なコピーも含まれる)を真に受けず、実際の人や物を見て、実際に人と対話し、自分の頭で考えたり感じたりできる自分づくりの方がよほど大事で、そういう努力をしないと、人生の様々な選択で痛い目に遭うのは、けっきょく自分ということになる。