身体を張って生きること

 日曜の夜のテレビで、全国の漁師町で働く女性を取り上げた番組があって、けっこう感動しながら見入ってしまった。

 身体を張って生きている人というのは、人間としてとても健康に感じられ、とても素敵に見える。

 何が一番素敵かと言うと、子供が親の働く姿を見て格好いいと素直に思えること。漁のために何日間も離ればなれに暮らす家族でも、子供が親の人間性や仕事を誇りに思えれば、親子関係が歪むことはない。今日の社会には、親子の絆を、親子で共有する時間の長短ではかろうとする有識者もいるが、親と子に限らずどんな人間関係でも、接している時間の長さではなく、その質を問題にすべきだろう。 

 身体を張って生きている人は、この世界には言うに言われぬものがいっぱいあるということを身体全体で知り尽くしているという雰囲気が漂っている。

 世界のことを本当にわかるということは、そういうことなんだろうと思うけれど、たくさん知識があったり、難しい言葉をたくさん知っている人の方が世界のことをわかっているような顔をして威張っているのが今日の現象だ。そして、表現メディアには、そうした人たちにへつらう人が異様に多い。それはおそらく、表現メディアに携わりたい人の特徴として、知識があり、難しい言葉をたくさん知っている方が偉いという信仰があり、自分もまた、その種の競争の勝ち組に属しているという自負があるのだろう。そして、同じ勝ち組のなかで、もっとも目立っている言論人に、妙なコンプレックスを抱いている人が多い。

 机上の知識とか難しい言葉に関係なく、身体を張って生きている人は、はじめから言葉のうえでの争いなど念頭にない。大事なことは概念ではなく、身体の実感を通した、環境世界と人間、および人間同士の微妙な関係を掌握できるかどうかなのだ。

 漁師町の女性を取り上げたこの番組には、今日の社会で歪められた関係性を再考するうえで大事なことが幾つか示唆されていたように思う。

 そのなかでもっとも大きなことは上に述べた親子関係のこと。子供のための環境を整えることが親の仕事のような風潮があるが、環境がどうであれ、子供は親の背中を見て成長する。親が自分の人生をどう生き抜いているかが、子供に敏感に伝わる。どんな子供でも、自分の人生を自分で生き抜いていくことが天命になっている。だから、親に生き方を整えてもらうことより、身をもって生き様を教わることの方が重大だという再認識した。子供が通う塾のお金を稼ぐために自分を犠牲にしているなどという言い訳は、子供に余計な負荷を与えるだけで、何にもならないのだ。

 また、親であれ、寿司屋の師匠であれ、子供や弟子が独り立ちできるために、心を鬼にして厳しく接している。ぬるま湯のような世界は、その時だけ居心地がいいかもしれないが、後になってツケが回ってくることがわかりきっている。そうしたことは自然界でも常識であり、その摂理を経験を通して知っているものは、未熟者に対して甘いことを言ったり、優しく接することの無責任さをよく理解している。自分ごとでないから、そうできてしまう。

 築地で働いていこうとする娘に対する父親の厳しさとか、父親の跡を継いで寿司屋になろうとする女性をしごく師匠は、自分が身体を張って厳しい現実を生きてきたゆえに、そうすることが大事だと深く理解しているのだ。

 身体を張って厳しい現実を生き抜いていない人は、観念のなかだけで、優しさをもてはやす傾向にあるが、優しさが弱さを生んで、その弱さゆえに厳しい現実を生きていけなくなることも知っておかなければならないだろう。ましてや、自分が深く愛する子供であれば、なおさらのことだ。

 漁師町だから、身体を張って生きていくことが当たり前になる。そうしないと生きていけないから。しかし、都市生活はバーチャルと実体が混在していて、身体を張らなくても、何となく生きていけるような気がしてしまう。しかし、実際には、生きていけるけれど、生きている実感がしない。生きている実感を取り戻す為に、バーチャルなゲームに一喜一憂し、その気持ちの振幅によって、生きている手応えを得ようとする。そうした連続を通して、次第に呼吸が苦しくなってくる。この状況を変える為に、都市のなかでどのように身体を張って生きていくのか。身体を張るというのはいったいどういう状態を指すのか、明確な答えはわからない。

 ただ一つ言えることは、身体を張るというのは、都市であれ田舎であれ、自分の外にあると思っているものを、「自分ごと」として感じ、受け止めてしまう感覚に似ているということだ。

 漁師さんは海で働きながら、自分の身体の外にある様々な現象を自分ごとと感じているだろう。それと同じ感覚が都市生活においても可能かどうか。都市のなかは、現象があまりにも多大で複雑だから、それを自分ごととして引き受けていたら、身がもたなくなってしまう。だからといって全てを傍観していたら、自分と世界の手応えのある接点もなくなってしまう。その辺りの選択とバランスをどう取るのかが、都会で生きる知恵なのかもしれない。

 虚構に騙されず、実体のある本物と自分を結びつけること。そうすることによって、複雑怪奇な都会の現象世界を自分なりに整理できるだろう。実体のある本物を見極める方法は、机上のお勉強や、安易なハウツーガイドでは身に付かない。