ネット時代の表現の「質」について

 私は、ネットの中の情報として紹介しても変わらないと感じられるものは、できるだけ「風の旅人」で掲載しないようにしている。

 グーグルやブログをはじめ、インターネットの中の仕組みが急速に発展し、雑誌の存在意義が脅かされているが、相次ぐパソコン雑誌の廃刊のように、多くの雑誌がネットに取って代わられることは間違いないと思う。

 だから、今さらインターネットに取って代わられるものを行っても意味がないだろう。インターネットの利便さを享受しながら、インターネットでは表現しにくいものを、「風の旅人」で実現したいと私は思っている。

 「風の旅人」を制作するうえで写真家や文章を選ぶ時、私が大事にしていることは、「質感」だ。安直な情報伝達や解答の提示を目指しているのではなく、「質感」を通じて、理屈では説明できない本質的なことを感受し、それをきっかけに自分の頭でモノゴトを考えていくことを大事にしたいと思っている。

 話は変わるが、たとえば写真フィルムなどにおいて、昔のフィルムの方が今のフィルムよりも階調が細かい。わかりやすく言うと、今のフィルムは色のコントラストが強く、昔のフィルムは、色と色の間に微妙に異なるたくさんの色(情報)が詰まっている。情報が詰まっている方が、質感はある。しかし不思議なことに、たくさんの色(情報)が詰まっている方が、ぱっと見た感じでは地味に見えてしまう。ぱっと見た感じで派手なフィルムの方が印象が強いために消費者に選択される。それゆえ、フィルムメーカーはこぞって「色鮮やか」という誘い文句で、階調が少なく明暗のコントラストの強いフィルムを作ってきた。結果として、今のフィルムは昔よりも階調が粗く、質感が低下している。技術進化で質が向上していると単純に考えるのは間違いで、向上したのは、利便性とか実用性とかコストの側面だ。つまり、使う側に技術的修練がなくても、それなりに、ぱっと見の良いことができるというレベルにすぎない。

 こうした傾向はフィルムに限らない。ぱっと見た感じが派手で強い印象のものが世の中に溢れており、それが当たり前になると、さらに目立つために、質感を犠牲にしたものが増えてしまう。

 しかし、その類のものは質感や味わいに欠けるため、飽きやすい。短期的には通用するが、長く付き合えるものではない。

 「言葉」もまた同じで、階調が豊かで情報が詰まっているものは地味な印象を与え、明瞭簡単なものの方が印象が強く、そうしたものの方がベストセラーになりやすい。しかし、明瞭簡単な本は、何度も読み返せるほどの味わいとか深さはない。ケチャップとか濃いソースの味付けのようなものだ。にもかかわらず、たくさんの人が手に取ったり買ったものは、内容が素晴らしいに違いないと錯覚している人が多い。

 何度も読み返せる文章や、何度見ても飽きない写真というのは、一見地味であるが、機微が豊かなものだ。その機微が、読み手の心の深いところに働きかけ、大事なことを感じさせ、考えさせる。しかし、そうした地味で奥深いものは、取り扱いがとても難しい。例えば、賑々しい情報誌の中で小さく扱われたり、派手な広告と並べられてしまうと、単なる地味で暗いものになってしまう。

 機微とか奥深さを具えた写真は、「風の旅人」で掲載する時のように大きく見開きで紹介したり、余白との響き合いを通してこそ持ち味を発揮し、「美」に転化することができる。

 それに比べて、一見派手だけど階調も機微もない写真や文章などは、大きく紹介するとスカスカになって気が抜けてしまう。そういうものは、ネットの世界ならゴマカシがきく。ネットは、もともと機微とか質感を伝えることに向いていない媒体なので、ゴマカシがきく写真や文章が溢れている。

 もちろん、今日の雑誌や書籍の世界にも、ゴマカシがきく写真や文章が溢れている。でも、おそらくそうしたものは、ネットで充分に代用が可能なのだから、ネットの中の無数の無名人に取って代わられる宿命を避けることはできない。同時に、それらに付着している広告の類も、ネット世界に移行する。

 そのネット社会の情報は、見る人の主体性によって選ばれるものであるから、関心の無い人にとっては無に等しい。しかし、現在、表の世界に溢れている派手で賑々しい情報は、関心がなくても目に触れてしまい、心を惑わす。

 もしも、お役立ち情報などの選択行為がネットの世界に移行していくと、雑誌や書籍の世界は今よりも整理されたものになるだろう。賑々しい情報がネット世界に隠れてくれると、表の世界は、今よりもすっきりとしたものになるだろう。

 将来、表の世界に残るものは、ネットが不得意としていることだと私は思っている。

 いくら技術の発達があったとしも、ネットでは実現しにくいことがある。

 コンピューターネットワークの世界は、情報量、情報検索力、情報交換力、情報伝達力、即時性、コスト、スピードなどが断然優れている。そうしたことを優先すべきことは、ネットで実現した方がいいし、自然とそうなっていくに違いない。

 そして、どんなに技術が発展してもネットでは表現しにくいものは、「質感」だと思う。気配とか、手触りとか、味わいとか、モノコトを丸ごと感じとる体験をネットで実現することは簡単なことではない。(やがてそうなることがあるとしても、ずっと先のことだろう。)

 だから最終的に表の世界には、そうしたものが残っていく。絵を見る場合でも、ネット上で見るのと、ギャラリーで見るのでは、体験の次元はまるで異なっているのだ。

 私は、そうしたことを強く意識して「風の旅人」という雑誌を制作し、ネットでは実現できない空気感や、質感を大事にしたいと思っている。執筆者や写真家のプロフィールや、細かなお役立ち情報は、ネットでやればいいことだし、それがあることで全体の質感を損なう恐れがあると感じられるから、思い切って割愛している。

 

 しかし、いったいどういう原因があって、写真や文章に質感があったり無かったりするのだろうか?

 たとえば、一般の旅行雑誌などでよくあるように、ライターが訪れた場所で見たことや、インタビューの相手が言っていることを、事実としてそのまま写し取ってまとめたものが掲載されていることがある。

 しかし、それを書いた人は事実だと信じていても、知識的な裏付けが弱いゆえに、結果的にそう見えたり、そう聞こえただけというものも多い。また、自分で見て感じたかのように書いていても、実際は、安直に仕入れた知識断片の影響のなかで、当たり障りのないようにまとめているにすぎないものも多い。

 知識を知識のままアウトプットしたり、それとは逆に知識的裏付けの弱いまま、見て聞いた「私的な事実」を伝えるだけなら、文章でも写真でも、ネットのなかで多くの人が既に行っている。その種の「情報」は、急激に進行している「一億人総表現者化」の局所的な現象にすぎないのだ。

 「質感」のある表現というのは、そのように安直で薄っぺらいものではないだろう。

 一人の表現者の中に、他者の思考や感性が幾層にも織り込まれていて(つまり、直接、人と会ったり、書物を読んだり、たくさんの表現に触れた膨大な経験が自分事として記憶化されていて)、それが深ければ深いほど表現したいものと表現できるものの落差が大きくなって葛藤も強くなり、技術的な修練も必要になるが、それらの困難をクリアした上で、その人が何ものかを表現する際に、厚く積み重なった記憶と新しい体験が呼応し合う。その呼応力の強さが、表現の奥行きとなり、機微となり、質感になるのではないかと私は思う。

 例えば、白川静さんのシンプルな表現が圧倒的な力を持つのは、書物や人生経験を通して自分ごととして記憶化されているもののスケールが目も眩むように圧倒的なうえに、現在に向ける眼差しが鋭く、未来に対する思いもまた強烈だからだ。そのように個人の壮絶な努力や葛藤の果てに掴み取られたものが表現として外に出力されるお陰で、私たちは、その一部を共有させていただける。それは、畏れ多くもあるが、有り難いことでもある。自分の力ではできないことを、その人のお陰で垣間見たり感じ取ることが可能になるからだ。そのように優れて「質」の高い表現に触れる時、私は、本当に有り難いと思う。

 本日、「風の旅人」の8月号のテーマ、LIFE AND BEYONDの為に組んだ江成常夫さんの写真や文章を見ながら、強くそういうことを思った。昨日送られてきた茂木健一郎さんの文章にもそれを強く感じた。「風の旅人」の執筆者の文章が送られてきてそれを読む時、また写真家の写真を選んで構成して行く時、私はいつも有り難い気持ちになる。この気持ちが生じないものを、私は掲載したくない。

 私が「風の旅人」を制作するうえで選ぶ写真や文章の基準を挙げるとすれば、そういう気持ちが生じるか否か、しかないと思う。