コトバのチカラ!?

 「言葉は時に残酷で、感情的で、・・・・それでも私たちは、言葉のチカラを信じている。」に引き続き、

 「言葉に救われた。言葉に背中を押された。言葉に涙を流した。言葉は人を動かす。私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言朝日新聞・・・・・・」

 テレビCMでは、小学生や主婦、サラリーマン、OL、研究者などが登場し、言葉は、未来、思い出、現実、救い、勇気、夢、希望……などと語る。その趣旨は、言葉の持つ前向きの「チカラ」がジワっとしみ込むように訴えているのだそうだ。

 しかし、このCMなどにおいても、言葉の力を信じると言いながら、言葉だけで勝負せず、音楽と映像で雰囲気を演出している。

 「言葉のチカラを信じている」と雰囲気を作って宣言するのではなく、言葉のチカラを信じられるような言葉の使い方をするべきではないだろうか。

 

 演出の部分には目をつぶるとしても、発せられる言葉だけをとっても問題があるように私は感じる。新しいCMでは、言葉を、自分のための何かを実現していく力として捉え、そのことに何の違和感も感じていない。

 私が、このキャンペーンを見て感じる違和感は、「対話」の無さだ。

 小泉首相の単純明快な言い切りが支持を集めているので、それを真似するかのような、単純なキャッチコピーが続く。しかし、言葉のプロなら、どんな言葉にも揺れ幅があり、その揺れ幅のなかで「対話」が成就していくのだと自覚する必要があるのではないか。

 自分が考えていることや感じていることと言語化されたものに対するブレに自覚的な人は、人が発する言葉に対しても、言葉そのものより、その背後にあるものに対して敏感であるだろう。相手の背後にあるものを予感し、それに応えようとする。しかし、その予感は不確かなものだから、自分が行う返答に対して不安は残る。でも不安があるからこそ、相手からの更なる応答にデリケートに対応し、最初に感じた予感とのズレを修正できる。

 そのように、モノゴトを判断していく際に、いくつもの修正が行われ、判断が重ねられ、その判断の厚みによって初めて、相手の背景をより正確に察することが出来る。

 しかし、こちらが不安と予感を抱えながら、より正確に相手のことを理解しようと悶々としている時、相手が、単純な言い切りでコミュニケーションを遮断してしまうと、「話しが通じない」という感覚だけが残ってしまう。

 その感覚は、今朝の朝日新聞の記事にあったように、子供が万引きした時、子供を引き取りにきた親が、「お金を払えば文句はないだろう」と言いきるケースと同じであり、それが昨今の言葉を取り巻く状況の憂慮すべき問題ではないかと思うのだ。

 万引きされた本屋の親父さんが説教するのは、お金が欲しいからでも、謝罪が欲しいからでもないだろう。もう二度と、子供がそういうことをしないと感じられる手応えが欲しいのだと思う。その手応えを、子供やその親の言動から感じられれば、細部に関しては色々と不満が残っても、何かしらの信頼感は共有できる。

 「対話」というのは、最終的に相手を信頼できる感覚に至りたいがために始められるものであり、それを目指して、試行錯誤が繰り返される。

  

 「コトバは・・・、未来、思い出、現実、救い、勇気、夢、希望……」と言いきり、そういうコトバの力を信じると宣言する時、そのコトバは、自分を守り、自分の欲することを実現するための武器になってしまっている。

 そして、自分の武器や防具のようにコトバを扱う言語感覚と同じ人が、一方では、「愛国心」を強調する。どちらも、自分しか見えていないという意味で、同じ土俵なのだ。

 こういうことは、政治やジャーナリズムに限らない。

 たとえば、写真などの売り込みで、「自分の写真を見て欲しい」と電話をかけてくる人が多いが、「風の旅人」を見ていますか?と逆に尋ねても、ほとんど見ていない人が多い。つまり、自分を知ってもらいたいという気持ちは強いのだが、相手と対話を始める気持ちが弱い。相手と対話するためには、相手のことをまず知らなくてはならないと思うのだが、そういう気持ちが弱い。そして、そういう人の撮る写真というのは、非常にナルシステックなことが多い。そこには、その人の気分しか映っておらず、対象が存在しない。

気分というのは、感覚とは違う。感覚というのは、その場でその人が五感で感覚したもの。そこに雪や山があれば、そこにあるものに対して凄いと感じるその感じ方が、表現を通して伝わってくる。それに比べて、気分というのは、自分の脳内に既にあるイメージをなぞったり膨らませているだけのものだ。表現者は、対象を見ずに、自分のイメージの中に対象をはめこんでいる。それゆえ、その写真からは、表現者の発見や驚きは伝わってこない。だからそれを見る人も発見もなく驚きもない。そうした写真は、同じような気分の中にいる人だけが共感できるものだ。

 しかし、悲しいかな、同じ気分のなかにいる人だけが共感できるものは、既にその気分の範疇で多くの人が同じようなことを行ってしまっている。あちらこちらに狭く区切られた場所のなかに同じようなものが溢れ、刺激を受け合うのではなく妙な安心だけを得て、その壁の外に対する排他的な気持ちばかりを共有することになる。

 ジャーナリズムも、政治も、各種の表現行為も、そのような仲間内の居心地良さに安住する傾向にあるように思う。その結果、世界には細かな壁があちこちにでき、全体を見渡しにくくなっている。

 今必要な言葉のチカラというのは、そのような細分化で区切られた仲間内で充足するものではなく、「対話」と「展望」を具体化することであり、その先にある「信頼」を手繰り寄せるものではないか。言葉のチカラを信じると簡明に宣言することではなく、信頼できる言葉を発信することの方が、よほど大切なのだ。

 朝日新聞のこのキャンペーンのCFが流れていたのは、筑紫哲也氏と田原総一郎氏が、テレビ番組のなかでテレビ界の問題を種に談笑する番組だった。

 テレビのことを本当に憂慮するのであれば、短時間の番組のなかで一般論として語るのではなく、自分が仕事をしている局の上層部に直接直訴すべきではないかと思うのだが。 田原氏が、アイフルがあれだけの問題を起こしたのに、テレビは、その会社の広告をバンバンやる。ジャーナリストとして、その辺りを厳しく指摘しなくてはならないと少しだけ突っ込んだが、筑紫氏は、その問題は、番組とかテレビ局で働く個人ごとの問題である旨の発言をして逃げた。しかし、テレビ局はスポンサーからの収入によって成立しているのだから、これはテレビに関係する全ての人間が考えるべきことであり、ジャーナリスムの世界に所属していると自覚しているならなおさらのことだが、どうもその自覚はないようだ。

 そのようにしてキャスターは、テレビカメラに向かって一般論だけを話す。視聴者は、テレビモニターを見る。対話のような装いであるが、実のところ、対話に発展しないことが前提の安心感がテレビにはある。深刻な対話に巻き込まれたら、自分でどうすべきか考えなければならず、それは心の負担になってしまう。お茶の間でリラックスするために見るテレビに、それは相応しくない。曖昧な距離感があった方が、視聴者には好まれるのだ。

 こうしたテレビを使って「言葉のチカラ」のキャンペーンをやればやるほど、「言葉のチカラ」をより減退させることにつながり、今以上に、言葉が空疎なものになっていくだろう。


風の旅人 (Vol.19(2006))

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