知性を超えるもの

介護の現場に取材に行くと、いつも思うことがある。

 介護経験が長くなればなるほど、心身とも逞しく元気になっていく人が多いということだ。

 介護は心身に負担のかかる仕事だから、それをやればやるほど消耗していくように思われるけれど、その逆になっている。

 統計的には、ヘルパーの離職率は高い。しかし、そのほとんどが1、2年以内の短期間での離職者だ。技術的に未熟だったり、慣れないことで、いろいろ戸惑っているうちに心身が消耗して辞めてしまう。しかし、その壁を超えた人は、天命に即して仕事をしているという感じで、自然体で、とても活き活きとしているのだ。

 

 こうしたことはヘルパーに限らない。どんな仕事でも、自分のエネルギーをセーブして行っている人は、エネルギーがたくさん残っていて元気がいいかと言うと、むしろ逆だ。損得の分別を持たず、持てるエネルギーの全てを投入して取り組んでいる人の方が、疲れた様子もあまり見せず、元気さに満ち溢れていることが多い。

 もともと元気だからバイタリティ溢れる仕事ができるのだと言う人がいるが、最初、弱々しかった人が、精力的に働いているうちに、元気になっていくケースが多い。

 この前、事務職から介護現場への異動を自ら希望した人を取材したが、彼女と久しぶりに会った社長は、彼女の表情が素晴らしくよくなっているのを見て、驚いていた。

 理由はよくわからないのだが、無心、無欲、全身全霊でモノゴトに取り組めば取り組むほど、その人には、どこからかエネルギーが流れ込んでくるようになっているのではないかと思わずにはいられない。

 科学的合理主義というのは、ある種、「計算高さ」ということだと思うが、計算高くやっていると、エネルギーは、流れ込んでこない。そのエネルギーが流れ込んでこない人には、その感覚はわからない。だから、その感覚は、科学的には説明しずらい。

 なぜ、エネルギーが流れ込んでくるか、科学的でない説明をしてみよう。

 インドの宗教家が、この世界は水(のようなもの)で満たされていて、その水の中に無数の瓶があり、その一つ一つが人間(の身体、および自我?)なのだと説明する。

 だから、身体とか自我の瓶が壊れれば、その中の水は、全体の水に還るだけだ。

 古代の日本においても、人間が誕生するのは神の魂の一部が肉体を得ることであり、肉体が壊れれば、魂はあの世に戻るだけだと考えられていた。

 そうだとすると、肉体や自我が不完全な方が、水とか魂がそのなかに閉じこめられにくくなる。つまり、肉体や自我という瓶の外の水(のようなもの)や魂と交わりやすくなる。小さな瓶の中の水や魂で何かをするのではなく、その外にある大きな水や魂の力が、流れ込んでくるかも知れない。

 こういうことは、人間の知性ではなかなか納得できないことで、知性を超えた経験の記憶からしか、感じられないことだ。だから、経験より知性を重視する人には、わからない。しかし、知性を当てにせず、自らの経験の記憶と呼応する感覚を重視する人は、何となくわかるかもしれない。

 知性優位の時代では、知性こそが人間を幸福に導くと錯覚してしまうが、おそらく知性というのは、この宇宙全体に満ちた力のほんの一部にすぎない。だから、知性よりも、宇宙全体に満ちた力に素直に感応できる時代の方が、人間は幸福で豊かだった可能性がある。

 現代人は、人間が地球上でこれだけ繁栄し、平均寿命が延びたのは知性のお陰だと考えるが、知性とは、世界を満たす水を細かく分断する瓶=「身体」とか「自我」の数を無限に増やし続ける力にすぎないのかもしれない。しかし、「身体」を増やし、丈夫にし、その持続期間を長くし、さらに「自我」を強化することが進歩であり繁栄であり幸福だと現代人が信じ込んでいるかぎり、知性の優位は揺るがないのだろう。

 このような現代特有の思考特性で古代を理解しようと思っても、できる筈がない。

 例えば、縄文時代に作られた土偶などは、人体を模しているが、手足の片方が切断されたり、腹が割かれたりしている。これは、呪いだと説明されることもあるし、苦しみながら死んだ人の痛みを土偶に乗り移らせると説明されることもある。でもそうした説明は、「自我」とか「身体」を中心にものごとを考える現代人特有の発想ではないか。

 身体が無くなることで、魂が自由になって、魂が本来あった場所に戻って幸福になれるのだと考えると、土偶を壊すことは、むしろ自然なことなのだ。

 また、いつの時代にも存在した、病人、老人、子供、障害者なども、現代的な解釈で、弱いものに寛容な時代があったと説明されるが、そうではないだろう。

 不完全な身体は、より魂が自由であり、それゆえに崇められ、畏れられていた可能性もある。老人は智恵があり、共同体に役に立つという計算高い発想で大事にされたのではなく、衰えていく身体と反比例するように強まっていくように感じられる魂の力ゆえに敬われたのではないか。

 こうしたことは、現代の教育のように、理屈分別で教えられたのではないだろう。病人、老人、子供、障害者たちと接する機会が多いほど、自らの内側からエネルギーが増すという経験が記憶化され、そうした現象を「魂の力」によるものだと素直に受け止めていったのではないかと思う。

 今日では、「魂の力」などと言わず、「使命感」とか「責任感」とか「やり甲斐」という言葉で説明することもある。

 しかし、「使命感」とか「責任感」とか「やり甲斐」など、わかったように説明することは簡単だが、そもそも責任感、使命感、やり甲斐というのは、いったい何なのかという疑問が残る。

 「使命感」や「責任感」や「やり甲斐」もまた、こういう気持を持ったことがない人には、何のことかさっぱりわからない迷信のようなものだ。でも、例えば、仕事などにおいても、それまで平凡に働いていた人が、子供ができた瞬間、とてもエネルギッシュに働き出すことがある。

 それまで感覚的にわからなかった「使命感」、「責任感」「やり甲斐」が、自分の中でリアルにわかるきっかけがあり、そのスイッチが入った瞬間、その人の世界に対する関わり方がガラリと変わってしまうことがあるのだ。

 こうした現象は、知性の力によって引き起こされているのではなく、魂とか心の領域で、何かが起こっている。魂が活性化しているのかもしれない。それを、科学者は、ホルモンで説明しようとするだろう。ホルモンであったとしても、そのホルモンに刺激を与えるのは、自分の外側の世界との関係だ。つまり、外の世界と何らかのエネルギーの交流が行われている。そのように、目に見えないエネルギーの交流の感覚を、昔の人は、魂との交霊と表現しただけのことかもしれない。

 魂とか霊などと言うと、宗教臭くなってしまうが、ようするに、この世界には知性を超えた力があり、その力は、「身体」や「自我」に対する意識が強くなればなるほど、自分の中に流れ込んでこないというメカニズムがある。それは、「知性」では決して説明されないが、多くの人が自らの経験を通して知っていることなのだ。特に、介護現場をはじめ、「身体」や「自我」が不完全な状態で生きている人と接すれば接するほど、そういうことを、経験的に知ることになる。

 その経験的な感覚と、知性のどちらを尊重するかだけが問題であり、たまたま現在は、なぜか「知性」が優位になっている。「知性」を牛耳る人は、「知性」に偏っていけばいくほど、なぜか自分のエネルギーが減少していくものだから、計算高く人を利用する方法ばかり考える。また、「知性」に強いコンプレックスを持つ人は、自分の小さな「身体」と「自我」の中に閉じこもって、悶々としながらエネルギーを消失していく。

 そういう時代に生きていながら、「知性」よりも、実感として感じられる「魂の充実感」=現代風に言うなら「生き甲斐」を重視する人は、人を利用するのではなく、人のために働き、そのことによって、なぜか益々エネルギーを増加させていっているように感じられる。

 


風の旅人 (Vol.19(2006))

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