凄いと思える作品かどうか

 石元泰博さんの自宅に行く。

 奥様が亡くなられて3ヶ月経ち、以前より少し元気そうに見えた。少しずつ町中の撮影もしていると聞いた。「風の旅人」の11号→http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/11/image1.htmlで紹介した渋谷シリーズの続きを、85歳になった今も首からカメラを下げ、一人で黙々と撮っておられるのだが、最近、若者のTシャツのデザインなどが、どんどん表層的でつまらなくなっていると不満を漏らしているのは聞いていると、写真家魂が戻ってきたようで嬉しかった。

 20号で紹介する桂離宮http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/20/image1.htmlなどを見ればわかるように、石元さんの孤高の魂が、作品に美しい緊張感をもたらしている。

 石元さんは、40代〜60代くらいの写真家にとっては、もっとも尊敬すべき現役の写真家であるが、若い世代の写真家を志す人には、あまり知られていない。

 写真家を志している人の全てが写真家になれるわけでなく、おそらく1万人に1人以下の確率だと思うが、そのハードルの高さを自覚して、写真で食べていけなくても、自分流にそこそこ写真を撮って表現活動を行って行ければいい、と考える人が多い。

 写真で食べていけるかどうかは別としても、石元さんのようなレベルの写真が撮れるようになりたい、と思う人が少なくなっている。

 それはそれで構わないのだが、石元さんの写真と自分の写真の違いを、レベルの違いだと受け止めずに、種類の違いだと思っている人が多くて、その種の発言を聞くと、辟易する。

 石元さんの作品に限らず超一流の人の創造行為に対して、2,3流の人が、自分の次元まで下げおろして、アレコレ批判することが多い。

「隙が無さ過ぎる」とか、「完璧すぎて、遊びがない」などと評したり、「写真というのは造形の面白さこそがポイントなので、その視点から言うと、この人の写真の中で、これが一番いい」などと、わかった口をきくのだ。

 写真というのは・・・アートというのは・・・と、まず偏狭な自分なりの解釈を設定し、その設定のなかで相手を分析して論じる。

 そのアートというのは・・という解釈が、広く深く大きな設定ならまだしも、聞いてて呆れるくらい、表層的でつまらないことが多い。100メートルの山の上にしか立ったことがないのに、3000メートル峰の頂上の見晴らしを説明するようなものだ。

 そして悲しいことに、この種の人の言説をメディアは重宝する。なぜなら、世間には3000メートルの高峰を知っている人より100メートルの高さしか知らない人が多く、その人たちに媚びることで販売を増やそうとするからなのだ。そうした言説が大きな顔で世の中に流通するから、それを読んだ自称表現者予備軍も、表現というのは、その程度のことで良いと思ってしまう。

 このようにして、社会からは3000メートルの見晴らしが、どんどん無くなってしまい、100メートルの高さから見る同じような見識や作品ばかりが氾濫する。そうして、1億人総評論家になっていく。

 「完璧すぎて遊びがない」と言う批評は、完璧に仕事ができてから言うべきことなのだが、自分は完璧を追求するのではなく、面白みを追求しているなどと言って、自己正当化する。でも、そういう人の作るものは、だらしなく凡庸なだけで、面白みなどは全くなく、自己満足にすぎない。

 完璧という凄みは、誰でも簡単に実現できることではない。

 石元さんが撮った桂離宮の写真なども、余裕のあるスケジュールで何度も足を運びながら撮ったものではない。決められた時間で、桂離宮の見物客がゾロゾロ出入りする条件のなかでの一発勝負のものであり、最善の光の状態を待ちながら撮ったものではない。他の人が同じ条件で撮ると、第一線で活躍している人でさえ運良く一枚くらいまともな写真が撮れれば上出来で、あれだけの質のレベルで全てを揃えることなど、到底不可能だろう。

 そういうレベルの違いを敬虔に受け止めることからしか、プロとしての精進はないと思うのだが、「私の表現は、タイプが違うのだ」などといって、その厳然たる事実を認めようとしない。そういうスタンスで表現する人というのは、対象物を自分に都合の良いように解釈して小さくまとめることしかできない。

 写真というのは機械が介在しているので、技術的な側面だけを見て職人芸として理解されるか、技術が伴っていなくても、“目の付け所”(表層的な形)だけを表現行為とみなす傾向がある。二流、三流のものばかり見ているから、そういう分別で写真表現が認識され語られてしまう。

 しかし、一流を超えたものは、そういう分別で語れてしまうものではない。分別の付け込む隙もなく、「モノゴトはかくあるべきもの」と、存在の本質を厳然と示している。それは、イチローが、バットという道具を介在させて瞬間的に対象を捉え、それを打ち返すという単純な行為の中で、“奇跡”を人に感じさせて魅了するのに等しい。

 写真作品にしても、最終的には、”凄い”と自然に思えるかどうかが、善し悪しを決める基準と言っていいのだと私は思う。