カタログ化する社会

 昨日、石元泰博さんの自宅にお伺いした時、石元さん宅に送りつけられてきた高校生の「芸術」の教科書があった。それは、薄っぺらいカタログのようなもので、カラー写真をふんだんに使い、様々なアートを単純な括りでまとめ、その説明をスーパーのチラシのように粗雑な言葉で行っているものだった。

 薄っぺらいカタログ教科書に、古代から現代までのアートを、総花的に散りばめているのだが、写真表現に関するものも二頁あった。

 長倉洋海さんが撮った子供の笑顔と、長島有里枝さんの撮った「日常」?(と説明されていた)の写真があり、それらを代表させて今日的な写真の傾向の説明が簡単になされていた。

 この粗っぽさはいったい何なのだろう。

 おそらく、この教科書に基づくテスト問題も、

?現代の写真の状況について、正しいと思われるものを下記から選びなさい。

 と選択式のものになっているのではないか。

 安易な発想で、何か一つか二つのもので全体を代表させ、全体について説明するという、極めて単細胞的なモノの見方を「アート」の教育の現場で行っているということについて、やるせない思いになった。

 こういう教育が、昨日書いたように、100メートルの高さしか登っていないのに、3000メートルの見晴らしをわかったつもりになって論じるという状況をつくり出していくのだろう。この教科書は、100メートルどころか、床に寝ころんで手を伸ばしたところにあるものだけで何かを論じるという、さらに最悪のものになっているが・・・。

 こうした教科書に書かれた内容は、いくら覚えても、いずれ忘れてしまうことなのだから、わかりやすく、覚えやすくするという工夫じたいがナンセンスなのだ。大事なことは、内容を忘れた後に残る手応えのようなものだ。もしも、モノゴトに相対する時の安直さだけが経験として記憶化されていくと、その後の人生の至る所に、そうしたスタンスが顔を覗かせるだろう。

 さらに最悪なのは、この安直な手応えゆえに、「アート」?もハードルが低くなり、写真をはじめ表現活動を志す人が異常に増え、その人たちが、世界を安直に解釈して薄っぺらく切り刻んでいくことだ。

 私は、5月13日に、現在グーグルが進めている構想について私なりの考えを書いた。 →http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20060513  

このことは、その前日に書いた(→http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20060513)内容を受けたものであるが、ネットという新しいインフラによって、今まで以上に、「表現の質」が大事になるだろうという思いをこめて書いたのであって、グーグルの行っていることを楽観視しているわけでもないし、賛美しているわけでもない。

 グーグルに限らないが、現在、ネット上で進んでいることは、鉄道が敷かれた頃と同じように、新たなインフラになって、新たな環境が作りだされている。

 それは、人間の潜在的な志向性が顕在化しているだけであって、グーグルやヤフーという会社単位の出来事ではないように感じられる。

 ただ問題なのは、鉄道やグーグルに限らず、携帯電話でもそうだし、便利なもの全般に言えることだろうが、それらを使っているように思いながら、使われてしまい、そのことに麻痺しているうちに、完全に支配されてしまうということなのだ。

 グーグルの検索にしても、上位に来るものを無警戒に信用するというスタンスがあるかぎり、また、そうでなくても、検索上の記事だけを鵜呑みにするというスタンスであるかぎり、グーグルや、それを利用する企業が仕掛ける情報操作に支配される可能性がある。でもそれは、グーグルに限らず、どんなことにも言えることで、広告の派手な演出、テレビ番組が取り上げた物、有名人がお勧めする物、メディアを巻き込んで仕掛けられるブランド戦略に踊らされる人は現時点でも無数にいる。

 そうした構造は、ネット社会において別の形になって残り続けるだろうが、その別の形になるプロセスにおいて、これまでの既得権組が、既得権を失うことになる。それは、既得権を持っていない私にとっては歓迎すべきことだ。

 そして、グーグルの仕組みをしっかりと理解して対応すれば、そのシステムに盲目的に従属させられるのではなく、主体性を持って使う側に立てるのではないかという意味をこめて、5/11と5/13の記事を書いた。

 そのシステムの胡散臭さをしっかりと感じ取りながら、用心深く疑りながら、裏の裏を考えるスタンスで向き合って利用すれば、思わぬ出会いにつながることもある。慣れてくれば、検索の上位に来るのは広告的なものばかりだと経験的に知ることになり、キーワードの打ち込み方にしても、画一的でない工夫を覚えていくだろう。

 それゆえ、問題は、システムじたいにあるのではなく、それを使う側が、そのシステムに支配されないように訓練されているかどうかなのだ。

 画一化され断片化された知識情報の一方的な擦り込みが顕著になり、知識情報を疑ったり、裏の裏を考える能力が著しく減退していくこと。現在の学校教育が、そうした教育を行っていることが、一番心配なのだ。

 一緒に働いている若い人たちと接していて、時々、唖然とするのは、AとBの二つの異なるものを、安易に直線で結びつけてしまう単純さだ。

そして、その作業によって大切なことを切り捨てていることを自覚できていないことが多い。

 100メートルの視界が、世界の全てだと思っている。たとえ3000メートルの視界を知らなくても、そういう世界があるだろうという予感があれば、モノゴトに対する畏れ多さや慎重さにつながるが、その感覚が弱い。もちろん、経験不足ゆえのことだが、経験不足が畏れという柔軟さにつながればいいのだが、そうではなく、偏狭という硬直さにつながることが多いのが気にかかる。根本的に、”モノゴトの恐さ”や”畏れ多さ”が、あまり教えられていないのだろう。 

 誰しも、100メートルから少しずつ標高を上げ、高い場所での視界を経験的に獲得する。大事なことは、自分が今、100メートルの所にいて、自分ではわからない高い場所があるのだと自覚したうえで、一歩一歩、謙虚に登っていこうとするスタンスだと思うのだ。しかし、現在の教育は、そうした謙虚な心構えを無くする方向に傾いていて、ロープウエィを使ってもいいから、ともかく頂上まで行って軽く写真でも撮ってくれば、3000メートルの視界を知っていることになる、という程度になってしまっているのではないか。

 一つのことをじっくりと掘り下げるのではなく、総花的にたくさんのことを知っている人の方が偉いと教えられる。

 その結果、一つのことをじっくりと掘り下げ、そのプロセスのなかの様々な苦しみや喜びを味わい尽くすことの意義がわからなくなる。

 世の中にはいろいろ選択があるように感じて、気もそぞろになって、一つのことを掘り下げる心の余裕もない。その結果、あれもこれもと表層的に手を伸ばし、わかったつもりになって片づけ、けっきょく何も残らず、モノゴトを推し量る力も身に付いていかない。

 あの薄っぺらいカタログのようなアートの教科書を通して、大人たちは子供たちにいったい何を身につけさせようとしているのか、子供たちにどうなって欲しいと願っているのか、子供たちの将来のことを本気で考えている人が作っているのか、とても疑問だ。


風の旅人 (Vol.19(2006))

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