今大切な「飽きることがない」表現

 ちょっとしたきっかけがあって、1970年に書かれた「管理社会」という表題の新書を読んだ。そこに書かれたことは、現代にそのまま当てはまる。つまり、35年経っても何も変わっていない。

 現代社会を分析する評論は様々あるし、オウム真理教や、企業の不祥事など個別の現象に対する分析本も膨大にあり、しかも、一冊ごとがけっこうなページ数であるが、それらの全てを、1970年に書かれた「管理社会」が淡々と分析して説明している。その新書が行っているのは、それだけのことだ。でも、その後の35年間、その新書に書かれているそれだけのことを、より複雑に論じたり、焼き直したりしたものが再生産され続けている。

 いったいこれはどういうことなのだろう。同じような現状の分析説明本を読んで、現代人は、いったい何を納得したがっているのだろう。本を読んで、自分の置かれた状況を知ることはできる。状況を変えるためには、まず知ることだと教えられて、繰り返し、状況を知ることに努めているが、それで、何かが変わったことが一度でもあったのだろうか。

 現状の分析と説明を読んで知ったところで、いったいなぜ何も変わらないのか、ということを、真剣に考えることの方が大事ではないか。

 今、自分の目の前に何かの物が置かれていて、それを変えようと思えば、手を伸ばしさえすればいい。

 しかし、分析や説明は、頭の中の出来事である。他人の頭のなかであれこれ解釈された言葉を、本などを媒介にして与えられる。でも、与えられたものは、ただの解釈でしかない。解釈というのは、変えようと思えばいくらでも変えることができるし、積み上げようと思えば、簡単にそれができる。そのようにして、巨大な説明の体系ができ、膨大な資料となる。

 結果、目の前にあるものは、「現実」ではなく、ただの資料という状況になる。だから、手を伸ばして触れるものも、「現実」ではなく、ただの資料ということになり、延々とそれを繰り返し、説明の体系ばかりが増殖する。

 美術館に行っても、絵の下に説明書きがあり、ほとんどの鑑賞者がそれを一生懸命に読むものだから、前に進まない。絵を見る時間より、説明を読む時間の方が長い。

 説明を読んでしまうと、絵が自分のなかに入ってこない。だから私は、説明をいっさい読まない。

 今日、要町の熊谷守一美術館http://www.kumagaimori.jp/ に行って来た。幸いに、鑑賞者は私一人だった。

 展覧会場の真ん中に無垢の木で作った大きなベンチがあり、その上に寝ころんで、長い間、ぼんやりと絵を見ていた。とぼけたタッチで描かれたモノが、フニフニと動くような感じがした。色とか形という分別が消えて、そこにある実体がフニフニと動くような感じで、それが妙におかしくて、一人でニヤニヤと笑っていた。

 絵を見ようとしているのではなく、だらしなく向き合っているという感じなのだが、とてもたくさんのことを話し合っているような気分になってきた。綺麗とか美しいとか力強いとか斬新的であるとか癒しがあるとか、絵を主観的もしくは情緒的に賛美する言葉はたくさんあるし、構図がどうのこうの、様式がどうのこうのと、熊谷守一という人物がどうのこうのと、上辺の形式で説明する言葉も巷には溢れている。

 でも、そんなことはどうでもいい。とにかく、いろいろと話がしているような気分になれること。実際に言葉になっているかどうかではなく、気分として、話しをしているような気分になれる作品。例えば、まだ口のきけない子供の仕草を飽きもせずに眺めながら、心のなかであれこれ語りかけているような気分。そんな感じで、ぼんやりと絵と向き合っていた。

 熊谷守一の絵は、豪華絢爛でも、スタイリッシュでも、洗練の極みでも、○○××派などと気取ったものでもない。

 ただ、ずっと見ていても、まったく飽きがこないのだ。そして思わず、クックッと胸の奥から笑いのような感覚がこみあげてくる。子供の無邪気な仕草を見ている時のような満ち足りた気分で。

 そして、飽きがこないものこそ、実は最高の豊かさであり、贅沢なのだと思う。

 現代社会の様々な問題を論じる評論は、物と人間の関係や、人間と人間の関係の希薄さや断絶などの問題点を取りあげて、その原因を分析するが、その説明の体系じたいが、関係の希薄さや断絶の見本市のようになっている。何よりも、説明の体系じたいが、長く向き合っていられる「飽きにくさ」を持ち合わせておらず、豊かさを実感させてくれるものになっていない。

 現在社会に溢れる様々な物は、見た目の体裁や評価を嵩上げしたり肩書きや所属に頼るものが多く、実際に付き合ってみると、飽きやすいものが多い。その飽きやすさの積み重ねが、味気なさや物足りなさにつながっている。

 ならば、現代に求められる表現は、長く付き合っても飽きがこないものが一体どういうものなのか、説明ではなく実感として伝えることができるものだろう。

 表現によって、その喜びを知り、さらにその喜びを求めるようになっていくことで、現実は少しずつ変わっていくのだろう。

 戦後、何十年間もかけて、様々な評論的説明や、アートと称するものが現実を変えることができていないのは、管理的で機械的な状況のなかで表層的で刹那的な情緒に流れたり、ただ状況を説明するだけであったりで、味気なく飽きやすい現代社会の欠点を上からなぞり、踏襲したものだからなのだろう。

 「飽きることがない」というのは、今日の大量消費社会から生じる様々な問題を解く大切な鍵だと私は思っている。しかし、それは同時に、購買促進の足かせにもなるゆえ、多くの企業(そこで働く人)や、それに従属するマスコミにとっては弊害となる。だから簡単に、「飽きにくさ」を奨励する流れにはなりにくい。また、「飽きることがない」という境地は、ハウツーで学べるものでもなく、誰しも簡単に真似ができない。「飽きることがない」境地を実現しているものの質感を丸ごと味わい尽くすことによって、なんとなく、その努力すべきベクトルが感じられる程度なのだ。

 それ以前の問題として、この世知辛くて慌ただしくノイズの多い世の中で、「飽きにくさ」を感じ取れる程度まで、一つのものとじっくり付き合えるかどうかが問題なのだ。

 しかし、そのように障壁は多くあるけれども、絵や写真を見たり文章を読んだりする時に、自問自答も含め、互いにたくさんのことを話し合ったという気分になって、何かしら手応えを得たような感じになれる表現が、今はとても愛おしく感じる。 その愛おしく大事に思う感覚を失わずにいれば、自然と、そういうものとの出会いが多くなるような気がする。