現代人の生理を司るもの?

 千葉県の富津に、土曜から日曜にかけて一泊二日で剣術の合宿に行く。

 二日間、コンピューターも、文章も見ず、無心になって木刀を振り続ける。

 宿泊した宿は、一泊7,000円で外観はみすぼらしいが、食事はとても美味しかった。さして豪華ということではないが、素材と味付けが抜群にいいのだ。最近の宿の食事は、山の中なのに刺身まで出して、品数ばかり多く、何を食べているのかさっぱり実感を持てない所が多いが、このたびの宿は、卵焼きや、アサリのお味噌汁、イサキの焼き魚など、じんわりとくる味わいを楽しみながら食すことができた。作り手の真心がこもった食べ物が、一番美味いのだ。

 稽古中、外は雨が降っていた。木刀を振りながら窓の外の何の変哲もない植木を見ていると、目が洗われるように瑞々しく、美しく思えた。

 美しい風景かそうでないかは、客観的にそうなのではなく、それを見る者の心の状態が反映されるのだろう。

 もしくは、見る者の心の状態に働きかける何ものかの力によって、見え方が変わるのだろう。その対象物が何らかの気配を放つ場合もあるだろうし、その対象物が存在する場の気配も影響を与えるだろうが、そうした外的要因に打ち勝つ心の状態を備えることで、どんなものでも美しく見える瞬間があるのかもしれない。

 3時間、ひたすら木刀を振っていると、その瞬間だけ、意識の曇りに邪魔されない澄んだ境地にトリップできるのだ。

 千葉からの帰り、東京湾アクアラインを通った。ちょうど昼食時でお腹がすいたので、海ホタルで一休みしようと思ったのが失敗だった。駐車場の入り口で、満車のために待たされている時、不吉な予感がした。大きな観光バスが何十台?(に見えた)も連なっており、海ほたるの中は、人でごった返していた。雨で景色は何も見えないのに・・・。

 海はたるの中は、お土産物屋、巨大なゲームセンター、チェーンの飲食店と、日本全国、観光地ならどこにでもある光景が広がっている。

 一軒の店に入り、天丼とざる蕎麦を食す。ウエイトレスは、手に機械を持って、復唱しながらオーダーをインプットしている。おそらく、性別、年齢なども分析のために記録されているのだろう。そして、食べ物は、出てくるのが遅いのに、冷めた物が出てきた。蕎麦なんか、くっついたように固まって、粉っぽくて、口の中がザラザラして、一口以上、食べられなかった。天丼も、ダシ汁は辛いし、衣はパサパサだし、半分も食べられなかった。空腹だったし、よほどのことがないと私は食べ物を残さないのだが、胸が悪くなりそうで食べることができなかった。しかも、メニューの表示が不親切で、1280円くらいだと思って注文したところ、1580円もして、その内容に不相応な値段に激しく憤りを感じた。

 最近、観光地に限らず、都内でも立地のいい場所には、アルバイトがマニュアルに添って作っているのか、異常に濃い味で不味い食事を出す店が多い。そういう店で食事をしてしまったら、その日一日、精神の状態が悪くなるので警戒しているのだが、海ホタルではつい油断してしまった。

 おそらく、テナント料も高く、お客は一見さんばかりだろうし、海の真ん中で他に選択肢がないから、堂々と、あんな酷いことが出来るのだろうが、もう少し何とかならないものだろうか。

 サービスを提供する側にも、それなりの誇りがあっても然るべきだと思うのだが・・・・。

 でも、飲食店の外には、大きなスペースを占有するゲームセンターがあり、ピコピコ、ガーガーと、眩しく、喧しく時空を歪めているのは、それを求める人が多いからだろうし、飲食店の食事の不味さも、私だけが憤慨していて、ファーストフードに慣れた舌にはちょうど良いのかもしれない。

 

 人間世界には、人間が計画し、人間が作ったものに関わらず、なにゆえに、それがそうなっているのか、わけがわからないこともたくさんある。

 人間は、自らの意志や考えによって何かを行っていると信じ込んているけれど、実際は、何ものかの力によって、行動を方向付けられているだけかもしれない。といっても、その力は、神だ霊だと一言で片づけてしまえるほど単純なものでもないのだろう。

 たとえば、一人一人の人間の記憶のうち自らが意識化できるのは氷山の一角で、無意識の領域には膨大なモノゴトが蓄えられていると言われる。

 私たちの無意識の記憶は個人のものではなく、そこには、私たち個人が体験する際に関わり合った全てのモノゴトにも蓄えられている膨大な記憶が、知らず知らず流れ込んでいる。たとえば、何気なく手に取って読んだ一冊の本。その本の内容が私たちの記憶に蓄えられていく時、その本を書いた人に蓄えられた記憶が私たちの記憶のなかに蓄えられていく。そのようにして無意識の底に蓄えられた記憶は、私たちが意識しないところで、モノゴトの表面に浮かびあがる。

 海の上のゲームセンターも、知らず知らず人間の無意識の中に蓄えられたものが、表面化したものなのだろう。

 そのように、真心がこもらず、味気なく、喧しく、粗雑なモノを大量につくり出す無意識を育むタイプのものが、現代社会で大きな影響力を持ち、現代人の生理を司っているのだろう。