子供の未来と、哲学や神話

 最近、四歳の子供が哲学的な質問をしてくる。

 昨日は、朝起きてきて、突然、「いのちは、どうやってできたの?」と質問してきた。いつの間に“いのち”という概念を覚えたのだろうと驚いたが、ここで怯んではいけないと思い、洗面器を水で満たし、その中の水をスプーンで掬い、「ケンがいる大きな場所が、この(洗面器)中だとするでしょ。いのちは、水みたいにいっぱいあって、こうやって、スプーンの中に入った水がケンになっているんだよ」と説明した後、スプーンの水の上に別の小さなスプーンで一、二滴の水を落とし、「これが、ケンが食べ物を食べた時」、そして、スプーンの水から一、二滴、洗面器に戻し、「これが、ケンがオシッコをしたり、ウンコをした時。わかった?」とさらに説明を加えると、「うん、わかった」と返事をした。本当にわかったのかなあと思ったが、論理としてではなく、何となく世界にはいろいろと流れがあったり関係があったりするのだなあいうぼんやりとした感覚だけが、伝わったのかもしれない。

 また、数日前は、「ねえねえ、神様はどうして見えないの?」ときた。そうか、神様がいると信じているんだ、感心だと思いながら、ちょっと考えて、「神様はね、恐い時と優しい時があるけれど、顔はすっごく恐いんだ。すっごく恐い顔が、いつもケンの前にあったら、ケンは厭でしょ。神様は、恐いんだよ。わかる? すごく恐いんだよ。だから、神様は隠れているんだよ」と、何故か、神様は恐いよ、ということを強調して説明した。神様は優しいと思うより、恐いと思った方がいいような気がした。

 さらには、「象はどこから来たの?」と質問してきたことがあった。これは哲学的問題ではない、と勝手に判断してしまい、傍にあった地球儀を見せて、アフリカの場所を示し、「ケンがいる場所は、この日本でしょ。象は、このアフリカという所から来たんだよ」と即物的に説明してしまった後、失敗したと後悔した。

「象はアフリカから来た」と言っても、アフリカを知らない子供にとってアフリカという言葉は意味不明の記号にすぎず、それだと説明したことにならない。そして地図もまた、アフリカという時空間を示しているのではなく、便宜上、平面に線を引いただけのものだ。その平面上の線の中の「アフリカ」から象が来たのだと説明しても、何かダメだぞという感じがした。それは、子供の疑問に答えたのではなく、大人の形式的な約束事を伝えたにすぎないのだ。

 それで思い直して、「遠い遠いところにア・フ・リ・カという所があるのだけど、そこに、ずっとずっと緑の草が広がっている所があって、大きなビルとか車はなくて、人間は牛のウンコを乾かして作った家に住んでいるんだよ。その家の中は、暗いけれど、ひんやりと涼しいんだ。外は暑いけどね。そして、家の外には、いっぱいシマウマやキリンがいて、ムシャムシャと草を食べている。それで、ライオンやチーターもいて、ダダダッと走って、シマウマを捕まえて、ガブリと食べている。その横を、大きな象のお母さんや子供がのっしのっしと歩いていて、象はそこから大きな車に乗って、何日も何日も舟に乗って、やって来たんだよ」と説明したのだが、説明している時、もともと昔の人にとって神話というのは、こういうことだったのではないかと、ふと思った。

 現代に生きる私たちは、地図を通して場所を説明するように合理的で有用とされる説明の仕方に慣れてしまっている。しかし、その説明は、双方で約束事を取り交わしたようなものにすぎず、濃密な記憶となって自分のなかに残るものではない。

 記憶というのは、過去のことだと思っている人がいるが、実はそうではない。人間の未来は、記憶の中に蓄積されているもので今だ具現化されていないものが、少しずつ顕現していくものだと思う。

 だから、記憶が豊かであればあるほど、未来も豊かなものになっていくだろう。豊かというのは、快適とか恵まれているという今日的な尺度ではなく、微妙な機微がたくさんあって、喜びも切なさも含めて、常に新鮮な驚きがあるということだ。

 すなわち、合理性と有用さに重きを置きすぎるコミュニケーションによって記憶が希薄化すると、その人の未来において顕現するものも希薄になる可能性がある。

 世の中をうまく渡ることができても、新鮮な驚きのない人生が良いものだとは思えない。

 合理性とか有用というのは、神話的時代に比べて進歩だと思いこんでいる人が多いが、実際は、豊かすぎて整理不可能な時空から多くを切り捨てて、平面の地図を描き、その限られた区域を狭く囲い込むという、貧しい行為にすぎなかったのかもしれない。