二種類のドキュメント

 ポレポレ東中野でやっている「プージェー」は、よかった。

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6933

 関野吉晴さんと、モンゴルの少女プージェーとの触れあいをドキュメントで追っているのだが、「事実」を通した「現実」の伝え方が、ひしひしと心に迫ってくる。感情を盛り上げるための効果音楽をいっさい使わず、自然の音と肉声だけというのが、またよかった。ドキュメント映画などのクライマックスで、作り手がこれみよがしに流す音楽が映画の時間と質を壊してしまうことがよくある。心の機微や感情などを音楽で作り上げていこうとするのは、映画づくりで一番安易な方法だと思うけれど、「プージェー」は、作為的な音楽がないからこそ、内面の機微が、震えとなって伝わってきた。

 今回、偶然、関野さんが来ていて、映画が始まる前に少しだけ関野さんの説明があった。その時、関野さんは、この映画の粗筋を話してしまい、プージェーが死んでしまうことも、「言っておいた方がいいでしょう」と前置きして言ってしまった。それを聞いた時、「えっ、なんで敢えて言うのかなあ!」とも思ったが、映画を見終わってから、安直な小説や映画のような、ストーリーの展開とか結末だけで見せようなんて考えておらず、プロセスこそが大事なのだ、という思いがあるのだろうなと思った。

 あどけない少女プージェーに限らず、人は誰でも死ぬ。それが早いか遅いか。結末でヒーローが生き残ってほっと安堵したり、死んでしまって、そのことだけを切なく感じても仕方ない。切なさも愛しさも、結末ではなく、生のプロセスの全てに向けられるものだろう。人間と人間の関係、人間と動物をはじめ森羅万象との関係のなかで顕れてくる一つ一つの表情や仕草などのディティールが、生きることの真実を顕わにしている。

 

 この映画の後、世界報道写真展を見る。

 同じドキュメントなのだが、こちらのドキュメントには、なぜか私は違和感を感じる。

 なぜなんだろう。

 現代社会の人間は二つの「現実」を生きていると思う。その一つは、個人の身体で直接的に感覚する「現実」。もう一つは、学校教育やメディアを通じて受け取る間接的情報によって、そういうものだと思い込まされている「現実」。

 数多くのモノゴトが錯綜とする現代社会において自分が直接的に感覚できるものは限りがあるし、民主主義社会は、誰しも同じ情報を共有することに意義が置かれているので、人々は、間接的情報を重視し、それに依拠して生きることが普通になっている。

 しかし、間接的情報というのは、情報伝達者と受信者に双方にとって、”他に取り替えのきかないもの”でないことが多い。

 情報伝達者は、「こういう事実を見なければならない、知らなければならない」と主張してくるのだが、その人自身が、その事実に直面している人々に対して本当に愛情を持っているのだろうかと疑問に思う写真が多いのだ。

 「プージェー」の映画では、「こういう事実を知りなさい」という主張ではなく、厳しい現実に直面しながら生きている人々に対する関野さんの愛情がひしひしと伝わってきた。厳しい現実に対して、何もできない自分がいて、何もできないのだけれど、胸をヒリヒリと痛めながら見守り続けている。

 けっきょく、人間はそれぞれの置かれた境遇のなかで、それぞれが精一杯生きるしかない。たとえ善意であったとしても、人の運命に積極的に関与することは、何か違う形で相手の運命を歪めてしまう可能性もある。たった一つの行為から、バタフライ効果のように影響が増大していってしまうのであって、それはとても恐いことだ。その全てに対して、責任を取る覚悟ができていればいいのだが、多くの場合、一瞬の感傷に流されているだけのことが多いだろう。

 他人の運命に積極的に関与していくのではなく、何もできないけれど祈ることはできるという距離の中で、相手を見守り続けること。一瞬の感傷ではなく、相手の存在を、長く心の中に刻み続けること。そういうことが大事だという気がするのだ。

 「プージェー」は、音楽で感情を盛り上げるということは一切行っていない。しかし、報道写真の方は、ドラマチックなメロディが大きな音で鳴り響いているという気がしてしまう。

 そういう感傷は、気まぐれで長続きしない。ドラマチックな演出は世間に溢れているから、その時々の時勢に応じた様々な情報と並列的になってしまう。

 イラクの人々に同情した後、パキスタン地震で被災した人々に同情する・・・、そういう感じで、あちこちの人を同情することが、本当にそれぞれの人を愛しているということになるのだろうか。「人類一般を愛する、愛は地球を救う、人の生命は地球より重い」などという言い方は、けっきょく、特定の人を愛し、特定の人に対して責任を持たずにすむことに対する詭弁ではないかという気がする。

 人は誰でも、潜在的な真実として、唯一の時間とともに生きていた人やモノの質感ある固有の手応えを記憶している。その記憶が焼き付けられた写真やドキュメント映画は、人と人や、人と森羅万象の魂の呼応が伝わってくる。

 その感覚は、メッセージとして簡単に言葉に置き換えられるものではない。言うに言われぬものであり、その言うに言われぬ思いは、自分の力ではとても及ばないものを感じる切なさでもある。

 人間は、真実として、自らの生の多くを、切なすぎる唯一の時間のなかで過ごしている。しかし、間接的情報は、その唯一性を曇らせる。流行に合わせて服を買い換えればすむように、人生もまた、人間の企図でいかようにもなると錯覚してしまうのだ。

 しかも、間接的情報は、簡単に言葉に置き換えることができる(・・・だから、・・・しなければならない等と)から主張も強く、重視されやすい。

 しかし、唯一の時と空間の中で、人と人や、人と森羅万象の魂が呼応しているようなドキュメントを見る間、私たちは、その唯一の時空の中に入り、動きまわり、ともに生きるような感覚になる。そうしたドキュメントは、それを見る人にとって、自分の身体的感覚を通した、新しい視界になるだろう。

 モンゴルに行ったことがなくても、関野さんの眼差しを通じて、新しい体験を行い、新しい眼差しを獲得するのだ。

 事実を頭で知ることよりも、そのように、過酷な環境のなかで生きて死ぬ人々と同じ時空を生きさせていただくことで、新しい視界を得て、自らの生と死を深く省みること。そうした態度こそが、そこに写し出されている人々に対する敬意であり、深い愛情ではないかと私は思う。

 敬意と深い愛情があるからこそ、プージェーの死の現場を、これみよがしに見せたりしないし、見る必要もない。映画を見ながら、プージェーを深く愛してしまっている人は、そういう感覚を共有しているだろう。



風の旅人 (Vol.20(2006))

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