壊れるものと、人の心

 今年の6月に五歳になった我が家の息子が、今朝、1リットルの牛乳瓶を庭の階段で落として、大泣きしていた。

 朝、新聞と牛乳を取ってくるのが息子の仕事なのだが、大きな牛乳瓶を二本と新聞を脇に抱えて、親父の大きなサンダルを履いて、ヨタヨタと階段を上ろうとして、牛乳一本を手元から滑らせてしまったのだ。

 そういう時、子供は大泣きするのだが、それは親に叱られるからなのではない。私も妻も、子供が親の手伝いをする時に失敗しても叱ることはないので、子供は子供なりの感覚で、牛乳瓶が壊れて、白い液体が飛び散る光景を見て、何かしら強い痛みを感じるようなのだ。

 我が家には、どじょうとザリガニがいるが、生物が死んでしまった時に子供が悲しみを感じるのは、“愛情”が芽生えていたのだろうとかってに想像するが、牛乳瓶など自ら動かない物体でも、砕け散って二度と元に戻らないことを知る時に、子供は何かしらの悲しみを感じるらしく、激しく泣き続けている。

 壊れても元に戻るものの場合、たとえば小さなピースを積み上げたレゴブロックの城などが何かの拍子に壊れても、あまりショックを受けずに、平然と組み立て直している。

 そういう光景を見ていると、幼い子供心にも、元に戻らないもの=かけがえのないもの、という感覚が生じており、それは、“いのち”を知る感覚なのではないかと思われるのだ。

 生きて呼吸するものだけを、“いのち”の対象をして見るのではなく、壊れたら元に戻らないものにも、“いのち”の感覚を感じている。もちろん、子供には、何が“いのち”で、何がそうでないかという分別はない。そういう分別は、社会教育のなかで一つ一つ整理して覚えさせられ、その枠組みの中でモノゴトを処理する癖をつけられていくのだが、そうした表層の分別を身につける以前の子どもの“いのち”の感覚は、ありとあらゆるものに開かれている。

 しかし、たとえばプラスチック製品など、落としても壊れないものは、経験を通してその感覚を覚える。その壊れないという手応えは、“いのち”の感覚を希薄化させてしまうのではないだろうか。“かけがえがない”という感覚を麻痺させることによって。

 そして、そういう鈍いものばかりで日常が埋め尽くされると、“いのち”のデリカシーがわからなくなる。

 ペットボトルとかコンビニ弁当のプラスチックケースなどについては、資源の側面で語られることが多いが、人間の心に対する影響を、もう少し考えなければならないのではないか。

“壊れる物”が具えている繊細さと付き合わずに成長すると、壊れやすいものが持っている味わいとか、かけがえのなさがわからなくなるし、壊れるものを見る時の痛みもわからなくなる。

 秋田県の幼児殺人事件で逮捕された女性が学生の頃に受け取った寄せ書きで、クラスの半数以上が冷酷な悪口を浴びせていたが、ああいう事実を見ると、人の心をプラスチック製品のように扱って平気なメンタリティが子供たちのなかに形成されてしまっていると思わずにいられない。ああいう冷酷な言葉を集団で浴びせられた時、人の心は壊れてしまうだろう。そして壊れてしまっても生きていかなければならないとしたら、自らの心を、プラスチックにしてしまうしかないだろう。

 戦後の日本社会では、壊れやすく扱いにくいという理由で、身の回りからガラス製品や陶器を排除してきた。

 そうした環境で作られるのは、壊れやすくて扱いにくいものは害であるという発想だ。そうした発想を持つ人たちが大人になり、さらにその傾向を加速度的に強めてきた。それが現在の日本社会だろう。

 日本製の自動車などが代表的だが、壊れにくいものが良質という発想で、競争社会においては壊れにくい物が勝ち残る。その結果、壊れやすいものは排除され淘汰され、壊れにくい物ばかりに囲まれることになる。かりに壊れるようなことがあっても、修理するという発想はなく、クレームをするか、捨てるかのどちらかだ。そうしているうちに、人間の心は、壊れることに対する耐性が無くなった。壊れるものの前で泣いて堪え忍ぶことができなくなった。壊れるものを見て痛みを感じたくないから、「自分の目の届かないところに追いやってくれ」と思うようになる。もしくは、壊れるものを見ても、分別ゴミのように自分に益になるか害になるかと咄嗟に計算して処理を行い、それが上手くできることが、現代社会では賢明な生き方ということになっている。

 しかし、そうした偏狭な賢明さの中から「平和」が唱えられるとしたら、少し恐いものがある。その「平和」は、プラスチック製品のようなもので、とても自己都合的に便利だけれど無味乾燥で味気ないものだからだ。

 本来の意味で「平和」というものは、ガラス製品のように壊れる物の中に宿る”かけがえのなさ”と切り離せないものだと思う。 


風の旅人 (Vol.20(2006))

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