本当の「科学的態度」とは!?

 7/13のエントリーに対して、『本当の「科学的な態度」というものを誤解されているのではないでしょうか?貴誌でも連載されていらっしゃる養老さんや茂木さんは真に「科学的な態度」というものを知っていると思いますよ。』 というコメントを頂いたので、そのことについて、自分の考えを整理してみたい。

 本当の「科学的な態度」というのは、私の考えでは、この世界に真摯に向き合い、真理を探究し、この世界に展望の光を見出そうとする態度ではないかと思う。

 こうした態度は、科学に限らず、芸術でも文学にも共通するものであり、真の意味で科学態度を備えている人は、そのことを理解しているのではないかと思う。

 そして、真の意味での科学者や文学者や芸術家は、自らの五感を総動員し、自らの思考の枠をめいっぱい広げ、そのうえで五感を超えた第六感に近いインスピレーションの恩恵も受けて、世界と向き合い、自分の表現で世界を表現する。そこに、文章か絵画か音楽か数式の違いがあるだけであって、根本的な態度は同じだと思う。

 真の意味での科学者は、観察と思考だけではなく、芸術家と同じように第六感のようなものによって世界の真理に近づけることを体験的に知っているのではないか。

 科学と芸術と文学に違いがあるとすれば、それはただ方法論が違うだけだ。

 私は、私なりのそういう考えに基づいて、「風の旅人」の執筆を依頼している。だから、「風の旅人」の執筆者には、科学者も文学者も思想家も芸術家もいる。

そして問題があるとすれば、上に述べたような真の意味での科学者でも文学者でも思想家でも芸術家でないのに、そのジャンルに所属しているだけで、その仲間だと思っている人だろう。

 ただ科学的な行為や文学的行為を繰り返すことが、科学や文学だと思われるようになってしまっている。しかしそれは、喩えて言うならば、イチローのバッティングフォームを解説し、それを真似してバットを振っているだけのことで、イチローのバッティングとは別次元のことだ。

 イチローのフォームは、来たボールを打ち返すという使命に裏打ちされている。つまり、相手を知り、自分を知り、自分にふさわしいフォームでボールを捉えることに、真の意味でのイチローのバッティング哲学があると私は思う。だから、日本球界から大リーグに行った時に、相手に合わせてフォームを修正し、結果を出すことができた。

 今日の科学や芸術にとって、ボールを打ち返す使命というのは何なのか。その真理を真剣に考え、展望を見出そうと奮闘し、実践している人は、科学や芸術という垣根にこだわらず、自分のフォームを作りあげることに懸命だろう。

 茂木さんの、閉ざされた科学村の人からは揶揄されそうな科学からの逸脱行為のなかには、そうした足掻きが含まれていると私は思っている。

 そうした紆余曲折を経て、自分は野球選手だから野球で結果を出すというように、科学や芸術のそれぞれの分野で自分のフォームで仕事をするという人を私は心から尊敬する。

 そういう人たちは、アインシュタインのことを尊敬していても、「アインシュタインがこう言っているから世界はこうに決まっているのだ」とは、考えないし、言わないだろう。

 権威というのは、何も政治家や大金持ちの特権なのではない。お墨付きの付いた価値観の上に胡座をかいてしまうことは、すべて権威的だと私は思う。学校の先生なども、自分の経験をもとにした肉声で語らず、「アインシュタインはこう言っている。だから先生の言っていることは間違いない」などという態度をとれば、それは権威的な態度だ。しかし、そうした態度に対して、どんな子供でも潜在的には敏感なものを持ち合わせているものであって、イチローのバッティングを解説するだけで自分ではバットを振らない人よりも、イチローそのものが発する言葉の方が魅力的なことは間違いない。それはイチローが有名人だからそうなのではなく、自らのフォームを掴んだ人間が語る世界との関わり方のなかに、この世界を前向きに生きていくうえでの多くの真理が含まれているからだろう。

 そうした前向きな奥義に目を輝かせるところが子供の健やかさであり、それを損なう態度を大人がとると、子供は歪んでいく。

 科学とか文学の本質的な態度においては、もともと違いはないと私は思うが、敢えて、今日の科学分野においては、言及しなければならないところがあると思う。

 というのは、イチローのバッティングなどであれば、イチローと、その打撃を解説するだけの人の違いは、バットを一振りするだけで明瞭になる。芸術もしかりだ。筆を持って、絵を描いてみれば、明瞭に違いが出る。しかし、科学の様々な公式というのは、それを生みだした人と、それを解説して使うだけの人の違いを、明瞭に浮かびあがらせることがない。

 科学が芸術などと一番異なる特徴は、先人の業績を、先人が達した時点からバケツリレーのように右から左に流していけるところにある。だからこそ科学は、急激に発展し変化していく。

 そのバケツリレーの中に紛れ込んでしまうと、偽物と本物がとても見分けにくい。そして、時とともに、科学本来の目的などどうでもよく、知的エリートでありたいなどという虚栄心や金銭欲などによって、バケツリレーに参加することだけを目的とする人も増えてくる。さらに恐いことは、科学という分野は、途中参加者が先人の業績を継承することに関して、他の分野よりもハードルが低いことだ。だからこそ、巨大な力を持つ科学的殺人兵器の開発に人員を集めることが容易で、盲目的に勤しめてしまうのだ。

 そうした行為と本来の科学は違うなどと遠巻きに言っても、状況は何も変わらない。

 科学には、もともとの性質として、そうなりやすい陥穽がある。そして、知らず知らず、多くの人がその陥穽に落ちている。

 自分の五感から六感までを総動員し、自分の頭で考え抜き、この世界に真摯に向き合い、真理を探究して展望を見出そうとする態度。「科学」を教える側や、「科学」を学ぶ側に、そうしたスピリットが継承されていくのであればいいのだが、果たしてどうだろうか。

 自分の頭で考え抜くことや自分の言葉(フォーム)でモノゴトを伝えていこうとする努力をせずに、「科学」に関係している人が、多いのではないだろうか。そうした態度は、科学関係者に限らないが、誰かに決められたことに追従してしまう傾向を強めていくのではないだろうか。

 そして、誰かに決められたことに追従するだけでも、なんとなく成り立ってしまうのが、科学的世界であり、科学の恩恵を受けている現代社会だ。

 私は、本来の意味での「科学」について攻撃的なのではない。「科学的なこと」の上に胡座をかいている人。自分の頭で考えて真理を探究することや、展望を見出そうとする努力を放棄しているのに、専門用語で武装し、先人や有名人の言説に依存するだけで知的であるかのような振るまいをする人を忌み嫌っている。

 そういう人たちの中で特に目立つ人に媚びるマスコミなどによって、世の中の言葉がややこしくなるからだ。

 文学や思想の領域での「ボードレールベンヤミンがこう言っている」も、科学の分野で「茂木健一郎アインシュタインに聞いてみればいい」も、同じ次元のことであり、ボードレールアインシュタインのことを本当に理解することは、彼らが言っていることを、自分の言葉で言いかえることができることだと私は思う。

 他者と世界を理解しようとする態度という意味において、科学も文学も本来は違いはないだろう。


風の旅人 (Vol.20(2006))

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