真理は常に”次の一手”のなか

 「相対主義」というのは、広辞苑によると、

 「一切の認識は、主体と客体との様々な関係によって制約され、単に相対的妥当性しかもたないと考える立場。倫理学では、価値の普遍妥当性を否認し、価値は時空空間の差異により変化すると考える立場。」ということになる。

 この立場だけで終わってしまうと、複数の真理があるから、好きにすればいいじゃないか、ということで終わってしまう。もしくは、「真理など無い」ということを真理として開き直っているようにも見える。

 そして、あれこれ、複数の、そこだけにしか通用しない「真理」を並び立てて、それをひけらかすという言葉の遊びに終始する。

 そういうことを延々と繰り返することが、精神的な活動とはとても思えない。

 つまり、相対的な視点を持つだけでは何にもならないのだ。

 だからといって、原理的な絶対主義のなかに「真理」があるとも思えない。

 私は、「真理」というのはいかなる時でも、”次の一手”のなかに宿るものではないかと思っている。

 「自分の内部」という言葉がよく使われるが、「自分の内部」は、無意識の領域では未来に開かれていても、意識して覗き込むと、どうしても、過去において達成されている自分を見ることになってしまう。これは「歴史」というものを考える場合でも同じだろう。

 「歴史」というのは、本来、過去〜現在〜未来へと連なるダイナミックな運動で、その全体像を掌握することが歴史理解だと思うが、「歴史」を覗きこもうとすると、どうしても過去の分析になってしまう。

 分析する際に、「歴史の全体像」を読む方向に意識が向いていればいいのだが、一つの事実に囚われてしまうと、その前後の関係性がわからなくなってしまう。

 将棋をイメージすると、わかりやすいのではないかと思う。

 将棋における真理は、「次の一手」にしかないだろう。次の一手によって、展開がガラリと変わってしまうことがある。それまで優位であった者が、たちまち劣性になる。

 優れた将棋師は、自分の駒の可能性と相手の駒の可能性、その位置関係など、複雑な関係性を読み解きながら、常に、「次の一手」を打っていく。過去に打った一つの手に意識を拘泥させてしまった瞬間、最善の「次の一手」が打てなくだろう。常に課せられるのは、現在の状況を掌握し、そこに至るまでの展開から次の展開を読みとった上で、自分なりに最善の「次の一手」を打つことである。それが正しいか間違っているかではなく、その一手によって展開を動かし、新たな関係性の可能性をつくり出す。そこに働きかけてくる他者の出方によって、自分のイメージする未来が開かれる可能性もあるし、窮地に陥る場合もある。未来が開かれたり、窮地に陥れば、それで終わりなのではなく、新たなる「次の一手」によって、展開と関係性が変わる可能性も残されている。

 そのように、私は、「真理」というのは、「過去における何でもありの解釈」のなかに存在するのではなく、常に「次の一手」にしか存在しないものだと思う。しかもそれは、絶対的に存在するのではなく、常に流動的な状態で。

 ならば、その「次の一手」をどう打てばいいのか、ということになる。

 一言で言うなら、打ち方は、人それぞれ自由だ。しかし、その「次の一手」が、自分に還ってくるという「真理」もまた、知っておかなければならない。未来が開かれるか、窮地に陥るか。でもそこでもまた、それで終わりではないということ。

 ならば最終的な決着はどこにあるのか、という疑問もあるだろう。単なる勝ち負けなのかと。勝ち組と負け組を決めることにすぎないのかと。

 私はそう思えない。

 将棋の最終段階は、王を取ることではなく、王手を打つことではないか。

 王手を打った側と、打たれた側の境地というのは、いったいどういうものなのだろう。

 プロの棋士にしかわからないということはないと思う。

 展開を読みながら、「次の一手」に精力を注いで取り組んだ果てに、王手を打った側は、もはや前にも後にも行く必要がなく、打たれた側は、もはや前にも後にも行けない状態に至る。その時、両者とも、それまでの流れ全体を俯瞰しながら、展開の機微に思いを馳せ、あそこがああだったから、こうなったのかと、「次の一手」に精力を注いで読み続けて動き続けた結果として現れた「未来」に対する納得感が生じるだろう。

 「なるほどね」と。そして、自分を知り、相手を知り、それまでの全体の流れを知る。

 その境地は、勝った負けたという分別を超えて、自分が自分になり、自分が自分でなくなる場所に至ることだと思う。

 自分が座った場所(領分)において、その場所のそれまでの展開を知り、次の展開を様々な気配から読み取り、自分の総力をあげて「次の一手」を指し続けて、最終的に、自分個人が、展開全体の中にある精神と肉体の運動体であることを知り、次の一手によって、局面が、コペルニクス的転換を起こすことを知る。科学の領域に限らず、人類の歴史を眺め渡せば、コペルニクス転換は、常にあったし、今もあるし、これからもある。

 そこが、自分が生まれ、自分が消えていく場所であると知る。

 また、「心」というのは、「次の一手」を指すための、感覚の総合なのではないかと思う。「次の一手」を打ちたいと足掻くあいだ、感情は生じる。全てを諦めてしまい「次の一手」がどうでもよくなってしまうと、感情は、消える。どうでもいいと口で言いながら、感情が残るあいだは、「次の一手」に対する思いがあるということだろう。最善の一手を求めているかどうかは別として。

 そして、「全てに対してなるほどね」という納得感に至った場合も、もしかしたら感情は消えるかもしれない。そのまま死んでしまっても、あまり悔いはないような気がする。