戦争とメディアと魂と、8月のこと

 7/19の記事に対するコメントを下記のようにいただいた。

『暫らく続いたkazetabiさんとM. F.さんの論争を読んでいて、ドストエフスキーの「地下室の手記」を思い出したのは単なる偶然でしょうか。なるほど、M. F.さんがいくら「2x2は4」と説いても、それはどうでもいいことなのかもしれませんね。もしかするとkazetabiさんはあの手記の筆者(架空の人物ですが)をこのブログで演じていらっしゃるのか、もしかすると彼そのものなのか、とも思いました。』

 私は、科学の人との議論を通じて、あの手記で描かれる世界の一部でいいから具体的に顕現したいという思いは持っている。でもそれは、あの筆者を意識的に演じるというほどのことではないが。

  ここから先は、途中までが、コメントに対する返答と同じだ。私が大学を中退してドロップアウトしたのには勿論様々な理由が複合的に重なっているが、「地下室の手記」は、そのトドメだった。ドストエフスキーは、今回行われたような現代の確執(科学だけでなく言葉を扱うメディアの問題も含めて)をとっくの昔に看破していた。私は、手記の筆者を意識的に演じるという器用さも才能もないが、現代科学の誠実な人(これが重要です)と、まったく逆の立場から向き合っていくと、自然とあの手記の流れに近いものになるだろうと思っている。でもそんなことしなくても、現代西欧科学に関係する人が、あの手記を真摯に読む機会があれば、科学の領分で戦っていくうえでも、強烈な葛藤を抱えながら、それでも宿命として前に進まざるを得ないということで、これまでと思考のアプローチが少し異なってくるかもしれない。そういう人は、既に多くいると思うけれど、単純な原理崇拝の傲慢さの上にあぐらをかいている人も多いだろう。近年の学校教育は、文系と理系をはっきり分けるなど、「文」と「理」を別物にしようとしていて、そういう傾向が、ますます悪い方向に導くのではないかと思う。

 そして、科学の人以上に、「地下室の手記」を、教養としてではなく自分ごととして真摯に読む必要があるのは、メディアの人だと思う。科学の良心的な多くの人は、歴史的に原爆とかがあるから、常に内心忸怩たるものがあるのではないかと思う。だからこそ、科学批判が原爆などにつながってくると過剰反応が起こる。それは心のどこかで意識しているからだろう。でも、メディアの多くは、”自分はどうなのだ”ということが棚上げになりやすい。先の戦争の原因の一つは、メディアにある。でも、それは戦争を単純に称揚したからではない。「先の戦争で、政府寄りになって戦争を称揚したので、その反省で戦争に反対して政府を批判する」という立場をとるとメディアは言うわけだが、そんな単純なものではなく、構造的なことを考えなければならないと思う。戦争というのは、突然起こるのではなく、既成事実の積み重ねのうえに、もうその道を選ぶしか二進も三進もいかなくなって起こる。その既成事実というのは何なのか。単に、言葉のうえで憲法改正反対、靖国反対を叫べば済む問題でもない。自分たちの中に巣くう問題に目がいかなければ何もならない。メディア自身が、自分たちの中に巣くう問題に目を向けることに意識的になれるかどうか。

 たとえば、広告に全面的に依存する体質とか。

 今朝の朝日新聞の朝刊の第一面に、自民総裁選で「安倍氏優位固まる」と大きなキャッチが出ている。(余談だけれど、一週間ほど前、編集部の事務所の狭いエレベーターで、安倍さんと一緒になってしまった。安倍さんの人当たりのよさとか、見た目の良さは、今日の大衆政治の時代の政治家として”少し危険なものがあると、感じた。

 それはともかく、同じ今朝の朝日新聞の第三面の広告スペースに、安倍晋三さんのハンサムな大きな顔と、「美しい国へ」というキャッチとともに、その著書が紹介されている。本文でいくら曖昧に中立を主張しても、全国紙でのこうした誌面の作り方じたいが、一種の構造的擦り込みになってしまっている。安倍氏のイメージアップに、メディアが多大な協力をしてしまっている。しかも皮肉なことに、その広告と同じページに、「言論の聖域を守れ!」という意味の社説のキャッチが躍っている。それは、自分たちの行っていることに対する反省はなくて、言論伝達者の自分たちを守ろうとしているだけのように見える。

 さらに言うならば、安倍晋三さんの優位を伝える記事の横に、「分裂にっぽん」〜新しき富者〜という特集があるが、ITや株の操作で儲けた人の華々しさとか、どうやって儲けたか、ということばかり書いていて、あまり批判精神を感じられない。「株価頼みの危うい歯車で回るが、参加できない人との差は広がる。」という言葉で締めているが、これを読んだら、コツコツと働いている人に、おかしな焦燥感や空しさを与えるだけではないのか。ほんの一握りの成功者の華々しさを、「まさにあぶく銭。これが経済を活性化させるんだ」、「職場を辞めた友人たちも月200万〜400万円稼ぐ」、「風呂もないアパート暮らしは2億円のマンションライフに一変した」、「普通の仕事をやる気はなくなってしまった」など、安易なコメント付きで載せ、人を煽り、そこに参加させようとする誘導になっていると感じるのは私だけだろうか。

 「意図はそうではなく、逆なのだ。今日の社会の分裂を何とかしたいのだ。その問題提起なのだ」と言うかもしれない。だとすれば、思いは正しくても、方法が間違っている。方法の間違いに鈍感になっていると言うしかない。

 広告への依存と配慮の無さ、扇情的なキャッチコピーで読者を引っかけるという体質のなかに、無自覚でだらしないものを私は感じる。自分たちの中に巣くう問題を棚上げにするかぎり、先の戦争の前と同じことを繰り返すのではないかと思ってしまうのだ。

 でもこうした批判でも、メディア側の人からすれば、「極端な前提を仮想敵として捏造して、それを攻撃するという言論がいまの世の中にはあまりに多いですね。このブログもその傾向があるなあと以前から感じてました。最悪なサンプルを抽出する=極端な前提に依存するという所を乗り越え、凡庸さを攻撃するのでなくより優れた実践を紹介し、部分的に批判し協同するという作業を風の旅人には期待したい」と言われ、メディアなどを批判する暇があったら、世の中の良い部分を拾い上げることをあなたの仕事にしなさい、今日の社会の問題批判は良識と権威を兼ね備えたメディアの仕事であり、理知も正しさもない凡庸な見識でよけいな口を挟むな!!と、なぜかヒステリックに罵られてしまうのだが。(笑)。

 言われなくても、より優れた実践を紹介するつもりで、私は「風の旅人」を作っている。巨大メディアも、浮かれたバブル長者を華々しく取り上げることより、有機的で土着的で地に足の着いた暮らしの実践者や、地道ながら心豊かな営みを継続している人たちを、美しく取り上げていくべきなのだ。バブル長者の虚構性が空しく見えるくらいに。

 まあいずれにしろ、「地下室の手記」にとどまっていても、未来は開かれないわけで、あそこに書かれたことを自分ごとして、どのように次の一手を打つかが大事であり、議論を目的化するつもりは、私にはない。

 先の戦争のことについて改めて思いめぐらし、そして、今日の靖国問題や愛国問題などについても思いめぐらすとともに、人の生と死について思いめぐらし、魂のことを思いめぐらし、科学的には根拠のないところで、どのように次の一手を打つかに思いをめぐらしたものが、8/1に発行される「風の旅人」の第21号、「LIFE AND BEYOND」ということになる。

 なぜか8月号は、いつもテーマが重い。昨年の第15号の「人間の命」http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/15/image1.html、一昨年の第9号の「人間の領域」http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/9/image.html もそうだ。意識しているわけではないのだが、結果的にそうなる。それはたぶん、8月がそういう時期なのだ。お盆があり、原爆と終戦の記憶がある。魂の問題にどうしても敏感にならざるを得ない。


風の旅人 (Vol.20(2006))

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